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明日、好きなように装って生きていく。『百女百様』はらだ有彩

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2020年7月に刊行された、はらだ有彩さんの『百女百様〜街で見かけた女性たち』(内外出版社)。

「前作の『日本のヤバい女の子』『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』(柏書房)を刊行しながら、改めて誰かを『ヤバい』とジャッジすることに疑問を感じたいと考えていました」と話すはらださんから、ウートピ読者へメッセージが届きました。

また、特別に本書の一部を公開。さまざまな意見が飛び交うのを目にしやすい現代、じっくりと世間や自分に「なぜ?」「何が?」と問いかけてみませんか——?

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好きなように装って生きていくためのカウンターパンチ

「装い」は最もジャッジされやすいものの一つです。衣服は生活必需品なのに、楽しみの要素も内包していて、「自分で選べる」と信じ込まれているせいで、肉体よりもさらに気軽にコメントしていいものだということになっている。

「30代でこんな格好は痛い!」「40代であんな服装はきつい!」という記事が頻繁に炎上しながらも、いつまで経っても絶滅しない。街に出れば思い思いの装いをした人は確かにいるのに、なぜか雑誌やインターネットなどのメディアの上では「ヤバい」ということになっている。「『ヤバい』と言ってもいい」ことになっている。

その気軽さの言い訳になっているのが、いつの間にか決まっていることになっているレギュレーションだとすれば、それを無効化したい。歴史の中で人間が勝手に決めたレギュレーションなら、100回「なぜヤバいの?」と聞き続ければ誰も答えられなくなるはず、と思い『百女百様』を書きました。

ファッションに興味があろうと、なかろうと、明日好きなように装って生きていくためのカウンターパンチになれれば幸いです(はらだ有彩)

第2章 偏愛より「見えても見せても見せなくても、下着は私の衣服」を特別公開

小さく寄せられたひだ。紐を縁取るピコ。つややかなサテンに儚いチュール。あるいは触るだけで眠くなるようなコットン。ぴったり包まれるジャージー。柔らかなパッド。はたまた、ショーツはご臨終してしまったけど思い出深くて捨てられないブラジャー。うんざりするワイヤー。我慢ならないホック。別に気に入ってるってほどではないけど、まあ清潔ではある、付き合いの長いパンツ。小さなドレス。生活用品。全部、下着についての説明だ。

下に着るから下着。上に着るから上着。中に着るからインナー。外に着るからアウター。言葉通りの意味なら単なる衣服であるはずの物体に、イメージがとめどなく流れ込み、この不思議な形状の布はとりあえず隠さなければならないことになっている。

だからだろうか。繁華街へ続く駅前の信号の前で、道行く人が彼女の背中を振り返って見ていたのは。

画像提供:内外出版社

画像提供:内外出版社

横断歩道の岸には信号待ちの人々がひしめき合い、ぶつからないように自分の足元だけを見て距離を詰めあっていた。しかし皆一様に、「ある地点」に近づくとはっと顔を上げる。視線は全て一人の女性の背中に注がれていた。

青いワンピースのリネンらしい生地は、後ろ身頃が完全に取り払われていた。そのかわり、大きく開いた背中は同じく青いレースに覆われている。腰から肩まで一面に踊る花模様のすぐ下には、彼女の皮膚があった。小さな花が肌に直接影を落とす。淡い影は肩甲骨の辺りで、黒いブラジャーのバックテープに分断されていた。

目を逸らす人、微かに笑って見つめる人、驚いて眉をひそめる人。目の前に立っていた数人のうち、誰かが小さな声で「すご、めっちゃ露出度高い」と呟いた。

呟きを聞きながら私が何をしていたかというと、ご多分に洩れず目を奪われていた。いつまでも奪われっぱなしではいられないので数秒で我に返り、視線をスライドさせる。

なぜ目を奪われていたのか。それは彼女の着用していたブラジャーがいかにもランジェリー然としたデザインだったからだ。レースが広範囲にあしらわれた、背中をホックで留めるタイプの一般的なランジェリー。私はこの事実に驚いた自分に驚いていた。なぜか今日に至るまで、私の中に「肌が透ける衣服を着るときの選択肢」は、

・何も着ない
・ランジェリー風でないブラトップを着る
・タンクトップを着る

の3つしかなかったのであった。単純に自身が服を着込みがちなため、肌が見えるファッションの解像度が低かったのだろうが、どうやら私は下着が見えるファッションを「当然ありえるもの」だと思いながら、頭のどこかでは「見えていい下着」と「見えない方がいい下着」を分けていたらしい(そういえば以前水着を買いにいったときに「このデザイン、下着っぽくない?」などと心配した記憶さえある。なんということだ)。

2017年の夏、静岡駅前で下着姿になった女性が公然わいせつ罪の疑いで現行犯逮捕された。「わいせつ」=「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」という、いわゆる「わいせつ性の三原則」に基づいてのことだそうだ。この件は「全裸ではなく下着を着用しているのに、公然わいせつ罪にあたるのか」「わいせつの定義が曖昧ではないか」「水着ならどうなんだ」と論争を起こした。わいせつ性についての曖昧な定義は、遡れば1951年に『チャタレイ夫人の恋人』の日本語版が出版され、翻訳者と版元が「わいせつ物頒布罪」に問われた際に最高裁判所が下した判決の影響を受けている。

価値観が時代や社会によって移り変わっていくのは当然だというのに、なぜかいつの時代も、下着はわいせつ、卑猥、エロ、タブーと容易に結び付けられる。この結びつきは案外強固で、「芸術か、わいせつか!?」といった論争の際にも「どうやってその『エロいもの』を芸術に昇華するかだよね」と、前提を検証しないままさらっと流されていくこともしばしばだ。「なぜエロいことになっているのか」は流すんかーい! となってしまう。工場やアトリエで縫い合わされる前、下着はレモン型や台形に切り取られた布片といくつかのパーツにすぎない。しかしひとたび縫製されて身体に沿う立体になった途端、この布製品は多くの意味を背負わされる、ことになっている。

2018年にアイルランドで行われた強姦罪の裁判で「女性がレースのTバックショーツを履いていた」という理由によって無罪判決が下ったことは記憶に新しい。「エロい下着を履いていたんだからエロいことするつもりだったんでしょ」とさらっと流されていきそうになるムードに対し、#ThisIsNotConsent(これは同意ではない)のハッシュタグとともに抗議活動が巻き起こった。

なぜ下着はエロと結びつくのか。要因は、まあ、割と簡単に想像できる。おそらく現代において「セックスのときに動員されるメンバーの頭数に入っているから」という点が大きいのではないだろうか。(ちなみに「全裸に至るまでの工程で一番最後まで残るから」と表現すると「身体はエロいのか」という問いかけが必須となる。この問いかけに対する私を含めた全人類のザルの目が粗い現状が、雑な結びつけの原因なのは承知しているが、文字数が足りなくなるので今回は下着とセックスの関係に寄せてみた。)

下着が積極的なプレーヤーとしてセックスに参加するシチュエーションはものすごくよくあるし、恋人と楽しむために下着を新調するのも大して珍しい行動ではない。下着をいい感じに利用したセックスはもちろん楽しい「場合」もある。場合もある。

しかしこの「場合」という概念を忘れると、途端に下着は本来の用途である性器を保護するための「①衛生用品」、単に身体を包むための「②布製の衣服」としての一面を取りこぼされ、「③セックスの時に動員されるメンバー」のみに限定されてしまう。そして【エロいシーンに登場するケースもある】から【エロ以外の何者でもない】に断りなく置き換えられるのだ。

静岡で女性が公然わいせつ罪で逮捕される2ヶ月前の2017年4月、集英社のウェブサイト「少年ジャンプ+」で連載されていたコミックエッセイ「すすめ!ジャンプへっぽこ探検隊!」の第3話が掲載中止となった。「漫画家の矢吹健太朗先生にジャンプ編集部の女子トイレのサインを描き下ろしてもらう」という趣旨の企画で、ショーツを膝まで下げる女性のシルエットを描いたイラストが公開され、矢吹先生の代表作をもじって「中で何かTo LOVE るが起こりそう」という発言が添えられた。

イラストを描くときに構成を練り、強弱をつけ、取捨選択する行為はクリエイターにとって欠かせない行為だ。下着とともにあるエロを追求することはもちろん楽しい「場合」もあるし、そういった分野を得意とする描き手によって強調されたエロはもちろん素晴らしく楽しい「場合」もある。

場合もある。

そして意図的に楽しまないようコントロールすべき「場合」もある。例えば、安心して排泄を済ませられることを目的に作られた場所に掲げる場合がそうだ。例えば、街中で突然目の前に現れた女の子の装いにはっと目を奪われたり、あるいは(おっ、いい女)と思ったりしたときに最初の数秒で行動を終わらせるよう努める場合がそうだ。

画像提供:内外出版社

画像提供:内外出版社

このように「③セックスのときに動員されるメンバー」と「①衛生用品」と「②布製の衣服」でできたベン図の、「セックスのときに動員されるメンバー」だけを全体のセオリーにすると壮大な取りこぼしが起きる。

「下着は限られた状態の時にしか見えない」

「下着は限られた状態のためのもの」



「限られた状態=セックスであり、それ以外にはない」(①②の取りこぼし)

「下着はセックスのみに紐づいた存在」

「下着が見える=着用者以外の誰かに見せている=セックスを仄めかしている」

というように、エロ一辺倒になるわけである。

エロ一辺倒になるとどうなるかというと、「見せる」「見せられる」という二人称が、突然、原理原則であるかのように取り込まれる。露出した状態を表すために【下着が「見える」】、【肌を「晒す」】という表現が使われ、露出したその場にいる「目撃する誰か」の存在が必要不可欠であるかのようなムードを醸し出す。

2019年、下着メーカーの株式会社ワコールが、自社ブランド「Date.」の新製品キャンペーンに元レスリング選手の吉田沙保里氏を起用した。「ズレない私で、いこう。」のキャッチコピーと、紺色の現実的かつシックなブラジャーを着用した吉田氏の写真がメインビジュアルだ。

しかし、この画像が公開されるとどういうわけかインターネットでネガティブなコメントが発生した。その多くが「見たくない」「勘違いしている」というものだった(これらの言葉を書いて再生産することに抵抗感があったが、嫌々ながら書いた)。

画像提供:内外出版社

画像提供:内外出版社

しつこくベン図を載せてみたが、こちらはさしずめ②(場合によっては③も)を含む①のための広告を③の視点のみで批判している状態といえる。

「見たくない」ということは吉田氏が自分の下着を見せジャッジを委ねている(広告の中で披露しているという意味ではなく、③の文脈で)状態を想定しているということだ。

「勘違いしている」ということは③の文脈で「見せる」には何らかのクリアするべきラインが存在し、クリアしていない者は見せるべきではないという選別があるということだ。

ちなみに③なんて想定していない、単に従来タイプのモデルを見たいんだ! という主張は、実際に着用を検討していた人(性別不問)が「吉田氏は私のなりたい人物像と大きくかけ離れているから、今後は購入を見送り別のブランドを選ぼう」と思案するときのみ成立する。それは購入者の自由だし、広告代理店の腕の見せ所でもある。

私は下着が結構好きだ。1970年代にはブラジャーを脱ぐことが女性の解放だと強く打ち出された。韓国では世間に求められる女性像から脱出することを「脱コルセット」と呼ぶ。下着の形状は見えない制約を具現化している。しかし自分の皮膚のすぐ上に、自分でお気に入りの布を乗せて翳してみることそのものは、割と楽しい。場合もある。

数年前、フランス北部のカレーにある国際・レース・モード・センター(Cité dentelle mode Calais)へ行った。展示室にはいろいろなドレス、コルセット、ブラジャー、ショーツ、タペストリーが並ぶ。さまざまなレースが表面を飾る。当時装飾のない服装にハマっていた私はその日もつるっとした黒い布で全身を覆っていたが、ふと(下着ならレースを選んでも服の邪魔をしないな)と思い立った。「上着」に合わないマテリアルを「下着」で取り入れることができれば、単純計算で世界が二倍になる。

それだけではない。青いワンピースの彼女のように「上着」に「下着」をかけ合わせることができれば——それも柄の制限なく——無数の組み合わせが思い浮かぶ。

もちろん下着になんて全然興味なくて、洗濯してあれば何でもいい、場合もある。胸を隠すのが嫌で仕方ない場合もある。恋人との旅行のために百貨店のランジェリーフロアへつい足が向いてしまう場合もある。「胸とかどうでもいいから、とにかく腹に装飾を施したいんだよ私は」という場合もある。

そのどの「場合」でも、そしてそれ以外のどんな「場合」に直面した時でも、あらゆる不確かな、取っ散らかった、綯い交ぜの、限定的な、アップデートされていない感覚に削られずに「この服をこんな風に着るのがしっくりくるな」という気持ちを優先できる世界であってほしい。

私はひらひらと揺れる青い裾を眺めていた。信号が変わる。勢いよく歩き出す人波に乗って、私も彼女も青信号を渡っていく。背中に踊る花模様は信号機の発光ダイオードのような彩度で、いつまでも目の奥に残っていた。

情報元リンク: ウートピ
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