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「自己責任」「生産性」…私たちを分断する言葉に抗う“ゆるいつながり”の可能性

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「その批判は当たらない」「LGBTには生産性がない」「障害者は不幸を生むだけ」--。

政治家による無責任な言葉や誰かの尊厳を傷つける言葉が幅を利かせ、そのことに嫌悪感を抱き、「おかしい」と感じながらもうまく言葉にできないモヤモヤを抱えている人は、決して少なくないのではないでしょうか。

そんな言葉や社会が「壊れつつある」現状について考えた、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)が5月に発売されました。

同書は、「マイノリティの自己表現」をテーマに研究している文学者の荒井さんが、障害者運動や反差別闘争の歴史の中で培われてきた「一言にまとまらない魅力をもった言葉たち」と「発言者たちの人生」を紹介しながら、言葉によって人間の尊厳をどう守っていけるのかを考えたエッセイ集です。

私たちが日々抱いているこのモヤモヤの正体は何? 社会や人間のつながりを断ち切る言葉に抗(あらが)うにはどうすればいい? 荒井さんにお話を伺いました。前後編。

書影

「自己責任」の変異株

——後編では「私たちのつながりを断ち切る言葉に抗(あらが)うために大事なこと」をテーマにお話を伺えればと思います。

第14話の『「黙らせ合い」の連鎖を断つ』では、近所の公園で高いところに登ろうとしていた子どもに声をかけたら、「ケガしても自己責任だから」と返されたというエピソードを紹介されています。荒井さんはこのことに、とても驚いたとつづっていらっしゃいます。

荒井裕樹さん(以下、荒井):たぶん10歳かそこらの子どもが「自己責任」と言ってきた時は、本当にびっくりしました。教育現場でも「自分で責任を持ちなさい」ということがよく言われるのですが、「そもそも、自分で責任を持つというのはどういうことなのか」を分かっておく必要がありますよね。

私は、「自分で責任を持つことができるようにいろいろなことを教える」のが教育だと思っています。学校教育であれ、家庭での親子の関わりであれ、自分で責任を持つとはどういうことなのか? そもそも責任とは何か? ということは、それについてみんなで話し合ったり、考え合ったりしながら体得していくものだと思うんです。

でも、そういったときに「自己責任」という言葉の何が怖いかというと、これ以上はこちらも関わらないし、おたくも関わってくれるな、というメッセージになることなんですよね。

——職場でも「風邪をひいたのは自己責任なので」と同僚が言っていた時にうすら寒いものを感じたのですが、まさに社会や人々の分断を象徴する言葉だと思っています。

荒井:最近思うのは、「自己責任」という言葉の“変異株”みたいなものが出てきているのではないか、ということです。

——“変異株”というのは?

荒井:「自己責任」という言葉が話題になったのは2004年のイラク邦人人質事件がきっかけでしたが、あの頃から比べると、随分その意味合いが広がってきたと思います。女性が性暴力の被害に遭うのも自己責任、社員を搾取するような企業に入ってしまったのも自己責任、というように、使われ方が広くなってきた。こうした意味の膨張も不気味だったんですが、最近はまた別の不気味な変異を起こしつつあるような気がします。

例えば、「会食したせいで(コロナに)感染してしまったのはあなたの自己責任だ(だから自分でなんとかしろ)」という言い方はこれまでもあったと思うのですが、「感染しても自己責任だから飲みに行きます(だから放っておいてください)」という使われ方を最近見聞きして、最初に耳にしたときは「あれっ?」と思いましたね。あなたが負うリスクについて私は関与しませんという使われ方だったのが、これは自分が引き受けることだから他人にとやかく言われる筋合いはない、という意味に変わってきている。

「自己責任」という言葉の何が怖いかというと、人と人との関わりを断ち切る言葉だからなんです。確かに、だれかと関わり合うって面倒くさいし、その関係を断ち切りたくなるときもあるわけですが、一方で、人ってゆるやかにつながっていることも大事だと思います。そこで「断ち切る」ことばかりが強調されてしまうと、「私のことなんだから、あなたにはどうでもいいことでしょう?」とか「好きなようにやらせろよ」というふうに、言葉がざらついた感じに変異していってしまう。こういう言葉が広まっても、おそらくは誰も幸せにならないだろうな、と思います。

人と関わるのって悪くない

——「自己責任」がまかり通る社会って殺伐としていて誰にとっても生きづらいと思います。なんとか抗(あらが)っていきたいと思うのですが、そこでポイントになるのが「ゆるくつながる」ということなのでしょうか?

荒井:そうですね、ゆるやかにつながっていることが大事なんだろうな、と。でも「絆」って言うと、うっとうしいですよね?

——うっとうしいですね……。「絆」とか言われるとしんどいです。

荒井:「絆」という字は、もともと「ほだし」とも読むんです。情にほだされるって言いませんか? あの「ほだし」です。もともとは家畜をつなぎとめておく綱の象形文字ですから、人をつなぎとめておくもの、拘束するものでもあるんですよね。そういう押し付けがましくない形での、ゆるやかなつながりを模索していく必要があるのでしょう。

私は1970年代の障害者運動の研究をしています。「人権闘争」などと言うと、いかにも崇高な闘いをイメージされる方も多いのですが、当時の闘い方を調べていると、みんな「ただなんとなく集まっている」んですよ。何かテーマを決めて議論するというよりかは、ポテトチップみたいなお菓子やビールを持ち寄って、誰かのアパートに集まって、ただ話し合っているんです。解決策は見えないし、答えも出ないんだけど、とにかく集まって話す。

そうすることで、一人一人が孤立しないよう、ゆるくつながっていたのですよね。とにかく「孤独にはしない・させない」という、その感じがいいのかな、と思います。仲の良さを確認し合うために特別なイベントを催すでもなく、「同じ酒を飲まなきゃ真の友達じゃない」という暑苦しい感じでもなく、何かあったらとりあえずゆるやかに集まってみる。そうやって凝り固まった自分の考え方や言葉を中和していく。そういう場がコロナ禍で奪われているからこそ、より大切に思います。

——「孤独にしない・させない」というのは意識していきたいですね。

荒井:もちろん、人それぞれ、できることもやれることもバラバラです。でも、だからといって「できることをそれぞれやりましょう」とだけ言っちゃうと、結局みんな個人としてバラバラになって、最終的には孤立させられちゃうんですよね。だから、そうさせないことが大事。

——荒井さんご自身は、ゆるくつながっていますか?

荒井:今は子育てで手いっぱいですが、でも、子どもの友達の家族同士で、子どもを預かったり預けたり、というのはやっていますし、とても助かっています。

以前、友達の子どもを預かって、お昼に冷蔵庫にあった食材で簡単にハヤシライスを作ったところ、出した途端にペロッと食べられちゃって、「ぜんぜん足りない!」と言われて打ちのめされました。子育てしてるのに「子どもが食べる量」をきちんと見積もれなかった自分っていったい何なんだろう? って落ち込みました(笑)。そんなこともありつつですが、ゆるくつながっていきたいと思っています。

——お話を伺っていて、人と関わるって傷つくこともあるし、しんどいこともあるけれど、それでも可能性というか希望を持ちつづけたいと思いました。

荒井:この本には、私が深く関わってきた障害者運動家も登場します。私が私の人生を生きるだけだったら、こうした人たちと関わらなくても生きていけたと思います。でも、それでも関わりを持ったわけです。付き合う中で大変なことやしんどいこともたくさんありましたが、楽しいこともたくさんあった。だから、私自身の個人的な経験としても、「人と関わることはそんなに悪いことではないぞ」という実感があるんですよね。私自身、一人でいることは全然しんどくないし、むしろ人といるほうがしんどいのですが(苦笑)、人と関わることも悪くないなと思えたのは、まさに、この本に登場する人たちのおかげなんだと思っています。

(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子、写真:山本ぽてと)

情報元リンク: ウートピ
「自己責任」「生産性」…私たちを分断する言葉に抗う“ゆるいつながり”の可能性

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