信州大学特任准教授でニューヨーク州弁護士でもある山口真由(やまぐち・まゆ)さんによるエッセイ『「ふつうの家族」にさようなら』(KADOKAWA)が2月に発売されました。
多様な家族のかたちや生き方にスポットが当たりつつある現代で、ハーバード・ロー・スクールで家族法について学んだ山口さんが「そもそも家族って何だろう?」と考えた内容がつづられています。山口さんにお話を聞きました。前後編。
“自己憐憫のエアポケット”に入ってしまう瞬間
——前編では「分断じゃない多様性の可能性」をテーマに伺いました。それで自分にも思い当たるなと思ったのですが、例えば地元に帰ったときに「私はあえて結婚を選ばないライフスタイルを選んでいる」とどこか気持ちよくなってしまっている自分がいるんです。
山口真由さん(以下、山口):それに自覚的なのって面白いですね。地元の「女性はなんだかんだ結婚するのが幸せ」という価値観が根強いところに帰るときに「私はこのくびきから放たれたから。私はパイオニアだから」って優劣をつけてしまうんですよね。
——そうなんです。
山口:私にもそういうところがあって。多くの人がまっとうに営んできた“スタンダード”に私たちは全員乗っかっているんですよね。その上で、そこからの距離感を測って「私はクールだ」ってやっている。「ふつう」がないと「そこから先いってる私、クール」も何もないですよね。距離感が測れない。優越感を感じる前に、フリーライドは自覚しないといけないなと思います。
例えば、自分は結婚していない、子供がいないことに対して心ない言葉をかけられたときに生々しく傷つくと同時に「来た!」と思ってしまうんです。「いいのが来たぞ!」って。
自己憐憫のエアポケットに入ってしまえば、私は被害者だっていう顔をして攻撃を避けることができる。卵子も凍結しているし、いろんな選択肢を残していて「選択なんです、女は」とか言い始めるわけですよね。だけど、私、非難され得ない場所に身を置いて、そこから「ふつうの家族」を打ちにいくなんて、こんな卑怯なことはないなって。「ふつう」という規範を内在化していたのは実は自分でそこからの距離感で得意になっているだけなのに。
——どこかトレンディになってしまっている。
山口:そう、だから私は自己憐憫のところにとどまっていたくないと思ったんです。
——それはこの本を書いていて思ったんですか? それとも昔から思ってたんですか?
山口:この本を書きながら思ったんです。まえがきとあとがきを最後に書いたのですが、まえがきを書きながら「私は何を書いてきたんだっけ?」ともう一度見返したら最初は「自分かわいそう」から始まっているんですよね。卵巣年齢が50歳で私はなんてかわいそうなの? って。
でも、書いていくうちに「いや、すべての人は“かわいそう”だし、“かわいそう”じゃないんだろうよ」と思ったんです。それぞれが何らかの難しい関係に向き合い続けているんだろうな、家族や親子、結婚、逃げ場のない関係に取り組んでいるんだろうなと思ったんです。すべての人に対して「その場で闘っている」ことに尊敬しなければいけないと思いました。
身近な他人に「結婚なんて古い」と言ってしまうとき
——山口さんの東大時代の同級生・しょうこちゃんが親から結婚しろと言われていることに対して山口さん自身が「なんでそこまで自分を殺して結婚しなければいけないの?」とヒートアップしてしまうエピソードが登場します。山口さんはそれを「自己をしょうこちゃんに投影している」と表現していますが、今の山口さんだったら、しょうこちゃんにどんなふうに接しますか?
山口:しょうこちゃんは難しいんですよね。好きなのは(新田)真剣佑だから(笑)。
「すべての人は結婚したいはず」という巨大なステレオタイプがマスメディアを中心にあって、特に30代、私たちの年齢で結婚してないのは不幸なことという前提のもとで、「いや、私は幸せだ」「私は事実婚でいい」「私は新しい価値観を持っている」とやってきたんですよね。だからこそ、私たちはしょうこちゃんに「結婚しなきゃいけないっていう価値観は古いんだよ」と言ってきたんですけれど……。
——そうですね……。
山口:本当は巨大なステレオタイプに対して闘っていかなければいけないんだと思います。「女がこの年齢で結婚してないってことは不幸なことに違いない。“女の幸せ”から外れている」というステレオタイプと私は闘ってこなかった。面倒くさいし、闘う相手が大きすぎたから。私はどちらかというと「結婚したいんです、でも、できなかったんです」と長いものに巻かれて生きてきました。でも、これからは私は、自分で選んで選んで選んで積み重ねた結果、ここにいますということを丁寧に言っていかなければいけないんですよね。
しょうこちゃんに対して何を投げるか? ではなくて、自分自身のことをちゃんと説明していきゃいけないのかなと。そうしたら、しょうこちゃんのことも普通に放っておいてあげられるのかなって。
——普通に放っておく……。
山口:つい自分の価値観を確認したくなっちゃってそれを他人に当てちゃっていたけれど、サンドバッグにされるほうはたまったもんじゃないですよね。「あなたは無理に結婚しなくていいのよ」と言うことで、自分は結婚しないという価値観を確認してるところがあって、本当は他人に当ててはいけなかったんだろうなと思います。
自分の不幸は蜜の味
——相手に当てることで手応えを確認するというのは思い当たることがあります。
山口:私は「自分の不幸は蜜の味がするぞ」と思っているんです。自己憐憫って、本当に蜜のように甘ったるい。特に生活に困っているわけでもなく、単純に“ラグジュアリーな不幸”だなって思ったんですよ。
——「自分の不幸は蜜の味」ってすごい言葉ですね。
山口:何となくこの不幸って陳列可能になってきてて、みんなに理解されるんですよ。「子供がいないんです、未婚なんです、結婚したいんです、高学歴で結婚できなくなっちゃったんです」って結構トレンディなんですよね。
——確かに女性誌の特集でありそう。
山口:それで攻撃されたら悲しいと言えばいんですよ。私は理解されなくて悲しいって。相手と同じリングに立って拳を振りかざすんじゃなくて、ただリングを降りて目に涙を溜めれば「不戦勝」。でもそれって甘ったるくないですか? 私は一番生活が苦しかったときに、今日のごはんのことは考えたけど、自分のアイデンティティのことは一切悩まなかったんですよね。そして、生活苦のことは誰にもいえなかった。
そういう意味では、私たちが今生きている不幸というのは、リアルな苦さの中にも、他人に見せられて、同情してもらえて共感してもらえて、そういう意味で自分の心を甘くする蜜の味が入り込んでいるのかもしれないなって。でも、この蜜というのはクモの巣でもあって、引っかかっちゃうと、一生そこから絶対に抜けられない。それで、自分を傷つける社会が悪いんだと。
例えば、結婚してる人たちが心ない言葉を投げかけてくる存在だって言っちゃうと、分断されて終わりなんですよね。だから私は、そういうところにとどまっていたくないなって。これまでも、未婚の女性を語る切り口っていくつもあったのですが、仲間うちで消費されて「あぁ、わかる」と自己憐憫をさらに強化して終わっていくんですよね。でも、本当は仲間の外側の人にわかってもらわないと。
——分断されたままで終わってしまうんですね。自分がその中に入っていたとして中の人たちは応援してくれるからわからないですね。
山口:私たちもその傷はリアルだから、なるほどなるほどわかるって思うし、それはきっと間違いではない。でも「私は傷ついた」というだけじゃなくて、どの表現にどう傷ついたのか、その背後にある社会のステレオタイプにどうして息苦しさを覚えるのかを自分で探して説明しなきゃならない。「被害者側に説明責任まで負わせるの? そんなのあんたが忖度(そんたく)しなさいよ」っていうのでは、絶対に伝わらない。伝わらないと社会は変わらない。「あんたにゃわからない」と言い放つことは、自分を傷つけた社会を変えようとせずに、被害者の立場に安住することなんじゃないかなって。そんなことを考えながら本を書きました。
(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子)
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情報元リンク: ウートピ
自分の不幸は蜜の味…私が「結婚できないんです」と言ってしまうとき【山口真由】