ステージ4の末期がんから奇跡的に回復したのち、再び東京のど真ん中で子育てと仕事の両立に奔走する日常を過ごす、私。海野優子、36歳、OL。
なんとか生き延びて「わざわざ生きてる」のに、私このままでいいの? これまではどうだったんだっけ——と思う日々についてつづっていくこの連載。第3回のテーマは、「病気とおっぱい」です。
Contents
幸せいっぱいの出産だったはずなのに
2歳になった娘、スイカとは、彼女が1歳になる頃までほとんど離れ離れで生活していました。出産と同時に私の悪性腫瘍が見つかり、治療に専念しなければならない上に、左足は全く動かず車椅子生活を余儀なくされたためです。
産休に入る頃、私はひどい腰痛に悩まされついには歩くことすらできなくなっていました。あと数ヶ月で産まれてくる我が子に想いを馳せながら、どんな肌着を着せようか、どんなベッドに寝かせようか、ベビーカーはやっぱりそれなりに良いものを買いたいよね、なんて……ずっと頑張ってきた仕事に一区切りつけて迎えた産前休暇は、本当だったら幸せいっぱいのはずでした。
それなのに、どうしてか座っても、横になっても、身体が痛くて痛くて眠れない。痛すぎてご飯も食べられない。お湯の温かさや水圧で気休め程度に痛みが和らぐ気がする……と、夜中に何度もお風呂に浸かったりして、寝不足を招く日々。
お腹の赤ちゃんは、こんな状態でまともに産まれてくるのだろうか? 睡眠も栄養も、赤ちゃんの身体を作る大事な時期なのに。
体力的にも精神的にも追い詰められた私は、この時点ですでに人生の一大イベントに失敗したんだな、という気分でした。……私ってば、いつもこうだよ……。やっと掴んだ幸せってやつが、ゴール直前にひっくり返るような、そんな感じ。
無痛分娩を諦め、娘と初対面
ほぼ1ヶ月間、痛みに耐える日々をおくった末、かねてから希望していた無痛分娩を諦めて、大学病院で出産をする事に。分娩体位をとるこができなかったため、帝王切開で予定日より約1ヶ月早く赤ちゃんを取りあげることになりました。正直、この時はもうとにかく痛みから解放されたくって1日でもいいから早く出して!と思っていました。
そしてついに、娘とのご対面。
全身麻酔から目覚めた瞬間、銀色の冷たいベッドに横たわっていた私は、本能的にそこから起き上がろうとしました。すると手術着を着たたくさんの人たちが私を囲み、肩を抑えて「動かないでください!元気な女の子が産まれましたよ!安心してください!」と大きな声で伝えてくれました。
「あ、産まれたんだ……」心の中でそうつぶやいて、すぐにまた目を閉じると、次に目覚めた時は集中治療室にいました。娘と対面できたのは、その次の日でした。夫と私の母と一緒に車椅子でNICU(新生児集中治療室)に会いに行くと、我が子が保育器の中で眠っています。
可愛いとか、そういう感想の前にまず思ったことは、まともに栄養を摂取できず、ほぼ1ヶ月寝ていない状態で、精神崩壊寸前だった私から、人間が無事に産まれてきたことが本当に不思議でなりませんでした。あんなに心配しなくても、あんなに頑張らなくても、よかったんだなと、人生のイベントに失敗したと思っていた頃の自分に教えてあげたくなりました。
いよいよ、人生初の授乳
さて、私の育児はここから。人生初の授乳が始まりました。抱きかかえると、目の見えない赤ちゃんは必死におっぱいを探します。私も負けじと自分のおっぱいをひねって娘の口に押し当てます。何度もトライしますが、なかなか上手にできません。はっきり言ってオニ難(ムズ)です。母子ともに何度も何度も挑戦して、やっと長い時間おっぱいに吸いつけるようになると、娘は美味しそうにお乳を飲み始めました。
赤ちゃんって、たっぷりお乳を飲んでお腹いっぱいになると、何とも言えない至福の顔をするんです。「はぁ〜美味かった〜」みたいな顔です。私のお乳を飲んで幸せそうな顔をしている我が子がたまらなく愛おしく感じました。諸先輩方から「授乳は痛いしおっぱい垂れるし良いことないぞ!」と聞いていたけど、先輩、これなら私、乗り越えられそうだよ!……と思えたのは一瞬、残酷にも、私が授乳できたのは生まれてからたった1ヶ月弱という短い間でした。
赤ちゃんへの影響を考えて痛み止めの効果が強い薬を飲めないため、必然的に足の痛みと戦いながらの授乳でした。しかし「痛みを自覚することは自分ががんであると自覚することでもあり、気持ちを今以上に弱らせないためにも痛みのコントロールは大事」だと夫にも説得され、授乳は諦めるしかありませんでした。
「お母さんにしかできないこと」を手放して思ったこと
授乳を止める、というのは思った以上に精神的なダメージがありました。「授乳で赤ちゃんとの絆が深まる」とか、「授乳は愛情を伝える大切なコミュニケーションだ」みたいな“母乳神話”は大嫌いなのに、理屈じゃない部分で切なさを感じるんです。
ただただ、娘のあの至福の顔が忘れられない。美味しそうに私の母乳を飲み終えた、あの満足げな顔が。
この子の産みの親は私。そして私のおっぱいを通じて、娘が私を母だと認識し、私も彼女が自分の子だと実感する。私にとって、授乳は母と娘になっていく大切な時間のように感じていました。
もっと飲ませてあげたいのに……。幸いにも娘はまだ小さかったため、母乳のことは覚えていないようで、現在でもそれを欲しがることはありません。
そして追い討ちをかけるように、私の病状が悪化。娘は生まれて1ヶ月で乳児院で生活をすることになり、私は娘と離れ離れになってしまいました。乳児院は様々な事情を抱えた子供たちが暮らしている施設で、娘との面会時間は平日2時間ほど。会う場所も小さな4人用の会議室と決められていました。
ママと呼んでくれる幸せを噛み締めて
最近、2歳になった娘が私の事を「ママー!」と呼んでくれるようになりました。保育園から帰ってくると、何度も何度も「ママー!ママー!ママー!!」と連呼しながら、車椅子に乗った私の太腿に抱きついて、私に会えた喜びを伝えてくれます。あの離れ離れだった1年間、ママだと思われていなかった時期を思い出すと、今でもその嬉しさで眼頭が熱くなります。
授乳を諦めたことで、娘にとって私が周囲にいる大勢の大人のひとりになってしまうのではないかという不安がありました。きっと、あの当時にかわりに母乳をあげるという人がいたら私は激しく嫉妬したかもしれません。“母乳神話”なんていまでも信じていないけれど、経験してみないとわからない気持ちがあるのだと気付いたのも事実。
余命宣告をされてから、なんとか首の皮一枚でつながった自分の命は、いったい何のためにあるのだろうと、ふと考えることがあります。生きる意味なんて、考えるのはナンセンスだし、たぶんそんなものは存在しないのだけど。でも、私はいま、娘が私をたった1人の母親であると認識し、ママと呼んでくれるこの喜びを噛み締めて、これからも生きていきます。
次回は、娘を乳児院に預けた1年間のことを振り返りたいと思います。
(海野 優子)
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情報元リンク: ウートピ
ママと呼んでくれる喜びを噛み締めて、生きる。病気で授乳を諦めたわたしが今思うこと