著作『産めないけれど育てたい。 不妊からの特別養子縁組へ』(KADOKAWA)で、日本ではまだ珍しい特別養子縁組のリアルをつづった池田麻里奈さんと池田紀行さんご夫婦。
麻里奈さんが30歳のときから不妊治療をはじめ、2度の流産と死産を経て、子宮を全摘。10年以上の妊活マラソンに終止符を打ったふたりは、妻44歳、夫46歳のときに、特別養子縁組で生後5日の赤ちゃんを迎えます。
おふたりが現在の暮らしを決断するまでについて、麻里奈さんにお話をうかがいました。第1回は、働きながら不妊治療をしていた日々について振り返っていただきました。
フルタイム勤務で妊活していた日々
——池田さんご夫婦は、麻里奈さん28歳、紀行さん30歳のときに結婚。2回目の結婚記念日までに妊娠しなければ病院に行くと決めていたそうですね。
池田麻里奈さん(以下、池田):そうですね、2回目の結婚記念日を迎える少し前に、それまでに子どもを授からなければ2人で病院に行こうと話していました。最初に産婦人科の予約をしたときは、不妊治療を始めよう、という覚悟があったというより、検査で何か見つかるんじゃないかという気持ちで行きました。
——不妊治療の検査というと、男性が嫌がることが多いとも聞くんですが、それは大丈夫でしたか。
池田:自分か相手に何かがあるんだろうとはお互い思っていたので、じゃあどっちも調べたほうがいいよねっていう自然な感じでした。なので、初日に2人で行きました。
——でも検査結果に不妊の原因は見つからなかった。
池田:そうなんです。そこで不妊治療を始めましょうと2人で意思決定したわけではないのですが、検査に行くと排卵日も調べてくれますから、そこからやんわりとタイミング療法*がはじまったという感じでしたね。
*タイミング療法……もっとも妊娠しやすい排卵時期に合わせて性交渉を行うために、検査などを行った上で指導をすること。
——検査日は生理のタイミングに左右されますよね。お仕事をフルタイムでしている中、スケジュールを捻出するのも大変だったのではないでしょうか。
池田:そうなんです。男性は精液検査のみですが、女性は生理の周期に合わせてホルモンの数値や卵胞の発育状態を検査しなければいけないので、月に何日も通院することになるんです。中休みやランチタイムを利用して中抜けしたり、遅刻や早退をしたり。この時点で、検査という名目での不妊治療が始まっていたんですよね。
——職場で不妊治療のことを話していましたか?
池田:隠しておきたかった気持ちが大きかったです。今から15年くらい前ですので、不妊の話は今よりずっとしづらかったと思います。妊娠・出産や育児に関する情報を発信する雑誌の部署にいたので、お子さんがいるワーママが多く、周りで不妊の話を聞いたこともなくて……。
人生が止まってしまったようだった
——妊娠や育児に関する雑誌を作っていたのですね。それはつらかったことと思います……。
池田:私もいつかこの雑誌の読者になりたいと思っていましたし、職場も大好きだったんですけれども、なかなかそこに行けないというジレンマを抱えるようになっていました。初めて「自分の努力じゃどうにもならない」ということを感じていて、それは本格的に不妊治療を始めてからのつらさとはちょっと違っていましたね。
準備はできているのにスタートに立てない。結婚したときは、さあこれからは子育てだと、長い間思い描いていた人生のスタートに立ったと思っていたのですが、そこで2年足踏みをして。毎月毎月「ダメだったね」って同じ話をしている停滞状態。人生が止まってしまったようでした。
——周りからの「赤ちゃんは?」という期待もありましたか?
池田:時代も少し前ですので、本当に無邪気に気兼ねなくその言葉を被せられていく感じがありました。結婚当初は、すぐに子どもができると思っていましたので、「3人くらいほしいんだよね」とか言ってましたけれども、その言葉がだんだんつらくなってきて……。
——産婦人科で原因がわからず、タイミング療法で足踏みしてしまった時期を経て、専門の不妊クリニックに転院したそうですね。
池田:はい。そこの先生が停滞感のつらさをわかってくれて、「ここまですでに頑張ってきているので、人工授精はどうでしょうか?」と言ってくださったことで、ようやく少し進んだ気がしました。「頑張っている」と言われたのも初めてでしたね。
そして33歳のとき、2回目の人工授精で初めて妊娠しました。胎嚢(赤ちゃんが入っている袋)が育たず、流産という結果になりましたが、「一度妊娠したので次こそは……」という希望も湧きあがり、人工授精を6回終えたころに体外受精にチャレンジすることを決めました。
——体外受精になると、体への負担が格段に大きくなったのではないでしょうか?
池田:人工授精のときは何とかごまかしていたんですが、体外受精だと限界がありましたね。まだ34歳くらいだったので体力もあって、体外受精で全身麻酔をしたあとに仕事に行ったこともあったんですよ。今考えると危ないし、絶対に体を休めたほうがよかったと思うんですけど、仕事を直前に休んだり、そういう自分の勤怠状態が自分で許せなくて。
職場の人には打ち明けていなかったので、体調が悪くなりやすい人という認識だったと思います。それでもすごく心配してくれて、「大丈夫?」「ゆっくり休んでね」と言ってくれていました。そのやさしさが心苦しかったです。
——仕事も脂が乗ってきた頃で、子どもが欲しいっていう気持ちとの両天秤状態だったんじゃないですか?
池田:本当にその通りです。キャリアをあきらめずに、次のステップに行きたいという思いもあったんです。でも、責任者として外せない仕事があっても、その日に体外受精のタイミングがきてしまったら、たぶん私は体外受精を選ぶ。35歳になる前の1~2年はとりあえず赤ちゃん優先と考え、体外受精を始めて1年後に退職してフリーランスになりました。
妊娠すれば苦労が報われると思っていた頃の自分へ…
——現在の池田さんが、当時のご自身に声をかけるなら、なんて言いますか?
池田:「あなたは十分、頑張ってるよ」ですね。「次、頑張ろう」ではなく。意外と誰からも言われなかったので……それは人に公表せずに自分で孤独をつくっていたからなんですけれども。
——「次」に目を向けるより、「今の自分」へのケアを大切にしたほうがよかったということでしょうか。
池田:そうですね。当時はケアが必要だと思っておらず、妊娠さえすればこのつらい日々は終わるんだ、と自分にできることはもっとないかと探している状態でした。あのときに必要だったのは努力ではなく、自分をケアすることだったんだと今は思います。
——約10年不妊治療を頑張り、40歳を目前にして、その後の人生をどう過ごそうかを2人で考え出したそうですね。「不妊治療の終わり」はどうやって決心されたのでしょうか。
池田:私たち夫婦には、「子どもができてから……」と先送りしていたことが山ほどありました。そのひとつが海のそばで暮らすこと。「子どもができてから」と先延ばしにしていたのですが、思い込みを打ち破り、新居建設に着手したところ、人生が再び動き出したように思います。
資金もかかりますので、いつまで続くかわからない不透明な不妊治療はネックでしたし、やりたかったことの先送りをやめたら不妊治療をしている時間もなくなってきました。
——人生の先送りをやめる。これは私たちも心に刻んでおきたいです。その後、子宮腺筋症で子宮全摘手術を受けられたのですよね。喪失感も大きかったのではないでしょうか。
池田:もうその時点ではあまり喪失感はありませんでした。むしろ、わずかでも「産めるかも」という希望を持たなくて済むことにスッキリしていました。不妊治療をやめても、「もしかしたら」という気持ちが頭のどこかにあって、そこにとらわれていたんですよね。だから、「もう考えなくていいんだ」と思って。手術は、10年間、毎日考えてきたことを手放し、往生際の悪い自分をスパッと考えを変えるきっかけになりました。
11月25日(水)公開予定の第2回では、仕事を辞めたのち、乳児院でボランティアをしたときに感じたことについてお話しいただきます。
(構成:須田奈津妃、聞き手、撮影:安次富陽子)
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情報元リンク: ウートピ
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