雨のニューヨークを舞台に、モラトリアム真っ最中の大学生・ギャツビー(ティモシー・シャラメ)とジャーナリスト志望のアシュレー(エル・ファニング)の週末を描いたウディ・アレン監督の最新作『レイニーデイ イン・ニューヨーク』が7月3日(金)から公開されました。
セントラル・パークやメトロポリタン美術館など、ニューヨークの美しい街並みを背景に、若い男女が織りなす“ロマンス”たっぷりのストーリーの魅力について、作家で社会学者の鈴木涼美(すずき・すずみ)さんに寄稿いただきました。
雨音に紛れて削げていく若さ
普段より少し視界が悪い雨の日は、何かとうまくいかないことが多い。視界も悪いし、普段なら気軽に行ける場所も遠く感じるし、髪も服もきまらないし、雑音に紛れて聞きたい音がよく聞こえないし、そもそも気分も少し曇りがちだ。ただ、余計なものが見えず聞こえないそんな日は、明るい晴天の下では目に入らないようなものが見えることもある。それが飾り気のない気持ちなのか、都合の悪い真実なのか、扱いに困る秘密なのかは、時と場合によるのだろうけど。
「レイニーデイ イン・ニューヨーク」は、いかにもウディ・アレンらしいクラシックなニューヨークの街を、時に土砂降りになる雨の中で堪能できる作品だ。雨の中で香りたつ、「何でもありな街」にやってくるのは、普段は郊外の大学に通うカップル。名前だけフィルジェラルドの小説から飛び出たようなギャツビーは、もともとマンハッタンの出身で、この度有名映画監督のインタビューという大役を仰せつかった彼女のアシュレーに、自分の好きなスノッブなニューヨークを案内しようと意気込む。しかしインタビューに出かけた彼女にも、街をぶらついて彼女を待つ彼にも、次から次に予期せぬことが起こり、なかなかデートに辿りつかない。降り出した雨は次第に激しさを増して、彼や彼女の何かを洗い流し、覆われていた何かを少しだけ浮き彫りにしていく。
カーライルのバーやメトロポリタン美術館などの伝統的なニューヨークの光景、音や光で存在感を変える雨、それらに加えて大きな主題となっているのは「若さ」だろう。
ギャツビーは裕福な家庭に育つが、上品ぶって教養ありげに振る舞う母親に振り回されることに嫌気がさしている。とはいえ本人も、アタマと趣味がいいことを誇っている様子で、お坊ちゃんっぷりが随所に見えるし、何かの拍子にちょっとした選民意識が露呈する。高明な監督にインタビューしたついでに思いもよらずにスターたちと交流することになった彼女を祝福する様子はなく、自分のデートの予定が狂ったことに苛立ち、元彼女の妹に再会して心を揺らす。アシュレーが映画スターといる様子を見てそのスターの悪口をさらさらと吐き、どこか軽蔑していた母親の知らなかった一面を目のあたりにして慄(おのの)く。自分がどんな人間として存在していくのか、どんなものを愛していくのか、まだ靄(もや)の中にある答えを模索中という感じだ。
一方、アシュレーもまたふわふわとした自我を抱え、定まらない足取りで好奇心のままに歩くが、自分の価値を知ってみたくてしょうがない。男性の目に映る自分の姿に浮き足立ち、物事の優先順位を自分でつけるには至らない。ブロンドで美しい顔だけど、中身はいかにも荒削りの文化系女子で、自己アピールとアイデンティティ喪失が交互に押し寄せているような不安定さがある。だから男性に手を引かれるままに、雨水が流れていくように街を流れて、気づけば方向感覚を失って、1日が過ぎていく。
私が見てほしい姿で私を眼差して
若者同士の恋愛は常にすれ違うし、ちょっとしたトラブルで歯車が一気に逆回転したりするのは当然で、自我が定まっていない者同士が、お互いに勝手に変化し続け、その割には相手の変化を許容できず、相手の目に映る自分の変化に戸惑う。そして自分も相手も、自分が把握していたよりもずっと愚かでずっと凄いのだと納得した時に、少しずつ大人になっていく。思えば私もそうだった。
学生だった時に求めたのは、自分の予測不可能な男でも、私自身が知らない自分の一面を教えてくれる男でもなく、自分の見てもらいたい姿で自分を眼差してくれる男だった。それは自分のアイデンティティが、まだ現実と折り合いをつけていない時分の、身勝手で夢見がちな願望だ。私は自分が思っていたよりずっと凡庸で、大それたことができるわけでもないのに皆んなと違う姿に憧れ、自分が特別な人間である期待と、自分が何者でもないのではないかという不安の間で時々脈絡のない選択をするような、ありふれた若者だった。そして自分のありふれた形を認めたくなくて、恋のお相手を使って自分の非凡さを見つけたがった。
そういう若者にとって恋愛は実に便利で、世界で自分だけしかなしえないことなんて本当は何もないのに、相手にとってたった一人の存在になることで、何者か定まっていない自分はたちまち特別な存在になれる気がした。幼い頃に読んだ少女漫画が全て、大した特徴もない普通の女の子が、誰かに選ばれることで特別な物語の主人公になる話だったことと何も変わらない。自分のことを何かの拍子に選んでくれた男の子の視線を通して与えられる、ある意味身の程知らずの不当な評価をありがたく身に纏(まと)った。
それは正しいことでもある。何十億という自分と同時に存在する人間の中で、誇りに思える要素なんて若い女の子には実はほとんどない。大学のクラスで評価されても秒速で誰かに上塗りされるし、思いついたほとんど全てのことはすでにどこかの国の誰かがとっくに成し遂げているものだった。何を書いても誰かがどこかに書いたものを都合よくコラージュしたようなものでしかなかったし、遊びもバイトも判で押したように皆んなと同じなのだ。だから、自分を他の人より大切に思うためには、冷静ではない誰かの評価を使うしかない。自分と同じように特別を追いかける彼氏の、冷静でも正確でもない評価は、一番手っ取り早く私を差異化してくれる。だから彼が他の女に目移りすることを極端に嫌ったし、自分が気づいて欲しい変化に無頓着だと苛立った。
それでも若い恋愛なんてとても脆くて、気づけば彼も少し冷静さを取り戻し、自分の選んだ女が自分が思ったように特別ではないことを知り、自分が思っていたよりずっとくだらない相手にも、そんな相手が特別に見えてしまうような自分にも小さく絶望して破綻していく。彼の目の中にいる自分が色を失うことで、自分自身が見出しかけていたなけなしの価値が簡単に消え、再び自分が形なんて持っていないんじゃないかと不安になる。その繰り返しだった。本当は、男の目に映る自分なんて都合よく書き換えられたものでしかないのに、それにしがみつかなくてはならないほど、若い私は自分と向き合う方法を知らなかった。
それでも誰かの“特別”になりたくなるとき
時は流れて、私がギャツビーやアシュレーと同い年だった時からすでに15年近く経つ。それでもいまだについつい、自分の価値を見失いかけると、安易に自分の欲しい評価をくれるような都合の良い男の「特別」になって逃げたくなる。それは、アシュレーがインタビューする大人たちもそれぞれ、雨の中で自分の非力や無意味を実感して、彼女の言葉を都合よく取り入れて自分を取り戻そうとする姿に重なる。
映画監督は自分の作品に納得がいかず、脚本家は妻の不貞に心を乱し、スター俳優は自分に夢中な女を雑に扱って何かの満足を得ようとする。大人になっても何十億の人の中で自分を見失うのは常に簡単で、取り戻す時にロマンスを孕(はら)んだ異性の視線は実に都合がいい。
それを全て否定すれば、ロマンスは一気に色を失うけれど、ロマンスの間に落ちる自分をどうにか見捨てずに愛せるかどうかが、夢見がちな若さとの決別につながるのだと思う。美しい街を満たす雨音と容赦ない水は、そういう必ずしも都合の良くない自分の姿を、少しだけ露わにする気がした。
■映画情報
『レイニーデイ イン・ニューヨーク』
7/3(金) 新宿ピカデリー、ヒューマントラストシネマ有楽町、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国公開
【作品クレジット】 (C)2019 Gravier Productions, Inc.
【場面写真クレジット】Photography by Jessica Miglio (C)2019 Gravier Productions, Inc.
【配給】ロングライド
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情報元リンク: ウートピ
美しい街と雨が容赦なく露わにする“若さ”の正体【レイニーデイ イン・ニューヨーク】