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障害者の話を“隣町の人”に伝えたい “コロナ禍での不自由”が教えてくれること

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「その批判は当たらない」「LGBTには生産性がない」「障害者は不幸を生むだけ」--。

政治家による無責任な言葉や誰かの尊厳を傷つける言葉が幅を利かせ、そのことに嫌悪感を抱き、「おかしい」と感じながらもうまく言葉にできないモヤモヤを抱えている人は、決して少なくないのではないでしょうか。

そんな言葉や社会が「壊れつつある」現状について考えた、荒井裕樹さんの『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)が5月に発売されました。

同書は、「マイノリティの自己表現」をテーマに研究している文学者の荒井さんが、障害者運動や反差別闘争の歴史の中で培われてきた「一言にまとまらない魅力をもった言葉たち」と「発言者たちの人生」を紹介しながら、言葉によって人間の尊厳をどう守っていけるのかを考えたエッセイ集です。

私たちが日々抱いているこのモヤモヤの正体は何? 社会や人間のつながりを断ち切る言葉に抗(あらが)うにはどうすればいい? 荒井さんにお話を伺いました。前後編。

このたび『まとまらない言葉を生きる』を上梓した荒井裕樹さん

このたび『まとまらない言葉を生きる』を上梓した荒井裕樹さん

“隣町の人”に読んでほしい

——『まとまらない言葉を生きる』は、ポプラ社が運営するウェブメディア「WEB asta*」で2018年2月から1年間にわたって連載された『黙らなかった人たち』を改題・加筆修正して書籍化したそうですね。執筆にあたり意識されたことは?

荒井裕樹さん(以下、荒井):障害者や人権についての話題って、どこか「遠い話」と思われたり、「重い」とか「真面目だ」と捉えられたりすることが多いので、まずはその意識をずらしたいと思いました。これらの問題を語ろうとするときに、学者とか先生っぽい口調で語るのではなくて、私自身が日々使うような「暮らしの言葉」で話したい気持ちがありました。“隣町の人”に読んでもらえるように書く、というのかな。そういう意味でエッセイを執筆するのはとても貴重な体験でした。

——“隣町の人”というのは?

荒井:例えば、身内に障害のある人がいたり、ご自身に障害があったりすると、障害や差別の話題は身近ですよね。関連する書籍も手に取ってもらいやすいのですが、そうでない人たちにも読んでほしいわけです。障害や人権の話ってなんだかハードルが高いな、と思っている人や、社会の問題に興味関心はあっても障害者差別にまでは踏み込んでいない、むしろちょっと距離を置いてしまうような人たちに届く言葉って何だろう? というのはずっと考えていました。

——連載のきっかけは?

荒井:ちょうど5年前に起きた相模原障害者施設殺傷事件がきっかけの一つです。こんなことあってはならない、この事件に対してちゃんと怒れなかった社会はおかしい、自分も何かしなくては、と思うものの、ずっとどうしたらいいのか分からない状態が続きました。でも結局、私にできることは文章を書くことなので、「この社会はいま、変になっているよね」ということを言葉によって問題提起したい、そのことについてみんなで考えたい、と思ったのです。そのきっかけとして、社会に対して真正面から「おかしい!」と声を上げた人たちの言葉を紹介することにしました。でも、連載中は不安しかなかったです。ウェブでの連載は初めてだったので、「ちゃんと伝わるのだろうか」という不安は常にありました。

——連載を振り返ってみて思うことはありますか?

荒井:例えば、元日にアップした記事(第13話として収録)がものすごく読まれたのですが、「正月からこんな重い文章が読まれるんだ」と思いました。もちろん、自分が書いたものについては事実関係に間違いがないよう責任を持つのですが、そこから先は予測がつかない読まれ方をするんだな、と。読者の反応がダイレクトに分かるのは新鮮でしたね。

「そうじゃなくても良くない?」という視点を大事にしたい

——本では、荒井さんが日々の暮らしの中でおかしいと思ったり、モヤっとした言葉をとっかかりに、障害者運動や社会運動に携わった人の言葉やエピソードが紹介されています。特にウーマン・リブの活動家の田中美津さんの「いくらこの世が惨めであっても、だからといってこのあたしが惨めであっていいハズないと思うの」という言葉に、違う視点を与えられたというか時代を超えて励まされました。

荒井:障害の問題やダイバーシティについての話題って、「そもそもそうじゃなくても良くない?」というように、別の視点をたくさん出すことが大事だと思うんです。「スーツって着なきゃダメ?」「制服って着なきゃダメ?」「障害者がやりたいことやっちゃダメ?」とか。「別の視点」がたくさんあることで、緩和される息苦しさがある気がします。

私は研究者であると同時に学校の先生なんですけれど、別に聖人君子ではないし、いつも「そんなに真面目に頑張らなくても良くないですか?」と思っています(笑)。この本を通して、そういう視点をどこかで感じてもらえたらいいですね。

——「そうじゃなくても良くない?」と思ったきっかけはあったのですか?

荒井:きっかけというか、子育てをしているというのは大きかったと思います。うちは共働き夫婦で子どもが1人いるのですが、互いの両親は遠いところに住んでいるので頼れないから、自分たちだけでやっていかなければいけない。でも、いまの日本においては、そんなの“無理ゲー”です。

世の中にはこまごましたハードルがたくさんあって、例えば小学校に入学すると「上履きはこういう袋に入れてください」に始まって、体操服のゼッケンのサイズや縫い付け方まで、本当に細かいルールが定められています。「それって本当に意味あるんですか?」ということがたくさんあるし、「お父さん」や「お母さん」として求められる役割もまだまだ多い。そういう誰が決めたのかもよく分からないルールがたくさんあって、モヤモヤが自分の中にも降り積もっていたんです。

だからこの本は、自分が子育てしていたから書けたというのがあるかもしれません。「まえがき」では政治批評のようなものから始めましたが、それだって「こんな国会答弁、子どもにはとても見せられないな……」と思ったからなんですよ。私の価値観で言えば、あれは子どもに見せてはいけない大人の姿です。

——政治家の記者会見を見ていても相手の質問に答えていないと思うことが多いです。

荒井:学生にも見せられないですよね。大学のゼミナールでもあの受け答えをやったらNGです。こういうおかしなことに対して怒ったり、批判したりするのはとても大事なことで、やらなければいけない。でも、じゃあ逆に、「良い言葉って何だろう?」と説明しようとすると難しいわけですよね。

だからこの本では、むしろ言葉がもつ説明しづらい力について考えています。そういう力のある言葉って、「世界の偉人名言集」みたいなものと違って、ある文脈や背景、それぞれの抱える日々の事情の中から生まれてくるものなので、そこと切り離して紹介するのも難しいのですよね。私がそういう言葉とどのようにして出会ったか、自分の体験とともに語ってみることでしか伝えられないものがある気もしました。それが最終的にうまくいったかどうかは読者の判断にゆだねますが、そういうことに挑戦してみたのが今回の本なんです。

コロナ禍での不自由さをきっかけに考えてほしいこと

——今はコロナ禍で連載当時とはまた違った社会状況ですが、注目している変化はありますか?

荒井:今は渦中なので、まだまだ分からないことがたくさんあるのですが、「行動」と「事情」が切り離されて、ものすごく短絡的に善悪が判断されてしまうような空気がまん延している気がしていて、それが不気味です。

例えば、どうしても「飲み会」をしないといられない、せざるを得ない人というのはいて、たぶん、いろんな事情があるんでしょうけど、「非常時」という状況が「個々の事情」を置き去りにして、「行動」の表面的な部分だけで裁いてしまう。もちろん医療現場で働いている人たちのことを思えば、リスクが高い行動を続ける人にモヤモヤする気持ちも分かります。私も身内が医療機関で働いてますから。でも、飲む人にも、きっといろんな事情がある。

いま政治家に求められているのは、「いろんな事情がある人たち」を説得するため言葉のはずですが、これまで、そうした誠意ある言葉を受け取った記憶はありません。個々の事情が切り離されて、行動そのものにキツい目が向けられるような過剰な倫理観が、この「非常時」が収まってもなお、変な形で社会に定着してしまうとしたら、それはすごく怖いことだと思います。

ただ、コロナの問題で考えてみてほしいのは、今、私たちはいろいろ不自由じゃないですか。人と会えないとか、不要不急の外出をやめてほしいとか。国会図書館も各種資料館も、予約制になったり閉館になったりして、資料を調べに行こうと思っても行けない状況になりました。これまでは「午後にちょっと時間できたから立ち寄ろうかな」と気軽に足を運べていたことが、今はできなくなっている。

——確かにお店やどこかの施設に行くときはネットで調べたり電話したりして営業しているか聞くのがいつの間にか習慣になりました。

荒井:でもね、障害のある人たちは、こういう不便や制約をずっと昔から受けていたんですよ。つまり、ちょっと出かけようと思ったら、予約や事前に連絡しなければいけなかった。混み合った電車に乗ろうと思ったら、「それ今じゃないとダメなの?」と言われたりもした。ずっとそうだったんですよね。

——先月も電動車椅子を使うコラムニスト伊是名夏子さんがJR東日本に無人駅での移動介助をいったん断られた経緯をブログで問題提起をしたところ、「事前に連絡をすべき」などど、激しいバッシングを浴びました。

荒井:コロナ禍になり、障害のある人たちが日頃感じてきた不自由を、障害のない人たちも感じることがあると思うので、だからこそ、想像力を働かせてみてほしいな、と思うのです。障害のある人とない人と、もちろん「同じ考え方」にはなれませんが、「同じ方向」は見られるのではないでしょうか。

もう一つ言うと、昨年の今頃、アベノマスクが配られましたよね。あの頃はウイルスについてまだ分からないことも多く、不安なことがたくさんありました。そこに配られたのが、布マスク2枚。私は、自分の命が軽んじられた、すごくぞんざいな扱いを受けた、と思いました。

障害がある人は、ずっとそういう扱いを受けてきたと思うんです。昨年、アメリカの一部州では、知的障害者に対して人工呼吸器を装着しない可能性がある、というガイドラインが示されました(後に撤回)。国や社会から命を軽んじられる、後回しにされる、という経験は、今に始まったことではなく、ちょっと目をこらしてみればこれまでもたくさん起きていたんです。

——隣町どころか自分の町で起こっていたことなんですね。

荒井:だからこそ、想像力を働かせてみてほしい。そのためには、モヤっとする問題に出会ったときに一足飛びに解決しようとせず(もちろんそんなことできないのだけど)、その引っかかりを持ちつづけることです。モヤモヤしつづけること、と言いますか。

「なんか変だよね」「なんかおかしいよね」と思えるって、自分が置かれた理不尽な環境に対して、まだ自分自身が染まりきってないということだから、そこで踏みとどまって、立ち止まって考えることが大事なんだと思います。

※後編は6月17日(木)公開です。

(聞き手:ウートピ編集部・堀池沙知子、写真:山本ぽてと)

情報元リンク: ウートピ
障害者の話を“隣町の人”に伝えたい “コロナ禍での不自由”が教えてくれること

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