「上京したらしたいことリスト」に書いた夢
「東京の老舗フルーツパーラーでイチゴのタルトを食べる」
18歳の時、「上京したら絶対することリスト」の1行目にそう書きました。
夢がかなったのは大学受験の前日。憧れ続けたタルトは王様の冠みたいで、てっぺんに乗った小さなピスタチオを落とさないよう、そっとナイフを入れました。
あれから四半世紀。歴史の教科書に載りそうなくらいの時が過ぎて、私は40代になりました。職業はPRプランナー。転職5回、留学1回、起業1回を経験して、表参道で小さなPR会社をしています。
主な仕事は、企業に広報活動のアドバイスをしたり、コミュニケーション研修をしたりすること。広報の専門家としての活動が中心ですが、時々、こんなふうに文章を書くこともあります。
沖縄で生まれ育ち、ずっと人見知りだった私がPRの世界に入ったきっかけは、26歳の時、留学先のパリで大家さんの脱税を目撃したことでした。領収書をくれない、タンスに現金を隠すなどの様子を目にして、うっかり「脱税なさってますか?」と聞いたのがマズかった。怒り狂う大家さんに敷金の返金交渉をしながら、寒空の下、新居を探す毎日。つたないフランス語でどうにか問題を解決し、コミュニケーションの大切さを実感したことが、いまの仕事につながっています。
「東京でPRプランナーをしています」、そう自己紹介するまでには、いろんなことがありました。
就職活動に失敗して、主成分セクハラ(!)な会社に入ってしまったり、お手洗い禁止の会社で体調を崩してしばらく沖縄に帰ったり……。
それでも都会で働くことへの憧れは消えず、理想のライフスタイルを求めて、仕事量を増やし、39歳から大学院にも通い始めました。予想外の病名を告げられたのはそんな時。仕事と勉強の予定で真っ黒だった手帳は一瞬で真っ白になり、大学院は中退することになりました。
30代は、頑張った分だけ人生の選択肢が増えると思ってた
あれ? おかしいな。こんなはずじゃなかった。頑張ることは正しいことで、頑張った分だけ人生の選択肢が増えるはずだったのに。どこで間違ったんだろう。
40歳目前、私は途方に暮れていました。東京で仕事を増やし続けるのも、沖縄に戻って職探しをするのも、どちらも不安で仕方ありません。そんな時、新しい扉を開いてくれたのは1通のメールでした。差出人は沖縄で働くフリーランスの女性。
「PRとブランディングを教えてください。地元で子育てしながら、いろいろな企業と仕事がしたいです。吉戸さんに習いたいんです」。
当時のクライアントは企業が中心で、PRを教えるメニューはありません。体調が不安定だったこともあり丁重にお断りした……はずでしたが、彼女は決して諦めませんでした。ついに根負けして、きちんと課題に取り組むという約束で引き受けることに。そこからの彼女の変化は想像以上。砂漠が水を吸うように知識を吸収し、ぐんぐん成長していきます。1年もたつと、目標にしていた仕事の依頼がいくつも舞い込むようになっていました。
場所の制約を軽々と飛び越え、生き生きと仕事に打ち込む姿を見るうち、ふと、こんなふうに思うようになりました。
「沖縄でPRを学べる場があったら面白いかもしれない」。
県内の観光施設で広報として働いていた20代の頃、壁を越えられず孤独を感じていた記憶がよみがえります。東京や大阪での研修は、旅費も含め、1回だけでもかなりの費用がかかります。沖縄で学びたい、課題を共有できる仲間と出会いたい、そう願っていました。“あの時の私”がほしかった場をつくりたい。心の中に、ちいさな灯りがともった気がしました。仕事はほとんどありませんでしたが、時間だけはたっぷりあります。ダメでもともと、挑戦してみよう。
地元・沖縄で「吉戸ゼミ、はじめました」
そこで始めたのが「わたし、ここにいるよ」作戦。まずは、地元・沖縄で自分の専門分野を知ってもらうことが大切だと考え、小さなセミナーを開いたり、コミュニケーションのコラムを書いたりして、ここにいるよサインを出し続けました。知識を深めるため、あらためて大学院に通い、広報・情報学修士号も取得。コツコツと準備を進めていた時に、実家の近くに新聞社のコワーキングスペースがオープンすることを知り、ゼミ企画を持って飛び込みました(と、ここまで4年くらい)。
2019年4月、ついに「女性のためのPR・ブランディングゼミ」が開講。沖縄初の試みにどれだけの人が興味を持ってくれるのか不安もありましたが、うれしいことに満席スタートとなりました。
観光、小売、通信など、県内13社から20人が参加してくれています。入社数年目から役員クラスまで、年齢も役職もさまざま。アメリカ、フランス、ドイツ、マレーシアなど海外経験豊富な女性も多く、「みんな、これまでどこに隠れてたの?(隠れてないか)」という個性的なメンバーがそろいました。
これから、初めてづくしのゼミを大切に育てながら、いまの身の丈に合った働き方を探してみるつもりです。以前のように、都会は働くところ、地元は休むところなんて決めつけず、大好きな2つの場所に、自分なりのちいさな居場所をつくれたらいいなと願っています。
というわけで、吉戸ゼミ、はじめました(冷やし中華風)。
そうそう。渋谷の食事会で「沖縄でも仕事してるんです」と言ったら、初対面の人から落ち武者扱いされました。オチムシャ……。音の響きが新鮮すぎて結構おどろいたんですが、それはまた、次のおはなし。
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情報元リンク: ウートピ
都会は働くところ、地元は休むところなんて誰が決めた? 私が沖縄でゼミを開いた理由