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自分とは異なった考え方の人がいる。それだけで存在することが許されている気がする

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またたく間にプライベートが拡散される

日も昇らぬうちに宿を出て、バスを2つ乗り継いで、ジャンブー村へと向かう。私が年末年始を過ごしたのは、クジャラート州*というインドの中でも最も観光客がいない地域だった。
*インド北西部の州。

そのせいもあってか、1つ目のバスを降り、次の目的地へと向かうためのバスを待っていると、人の「外国人がいるぞ」という露骨な好奇心を持った視線が痛く刺さる。インド人の視線は結構大胆で、遠慮が一切ない。興味関心の熱を持ったまま、こちらを見てくる。

けれど、この視線にももう慣れてしまった。なんせ、私がインドを訪れたのは今回で5回目となる。まあ、結構好きなんだろうな。何度も「しばらくはいいや」と思うのだが、なぜか急に行きたくなってしまう。ここは、そういう国だ。

バイクも派手でかっこいい。

バイクも派手でかっこいい。

ここでは本当に外国人にすれ違うことがない。おかげで、年を越してから「あけましておめでとうございます」と口に出して言ったのは、6日の朝に日本に着いた足取りのまま出社し、同僚と会った時だった。日本人と話をするのも久しぶりだ、という話をしたらかなり驚かれたんだっけ。

そういうところに、ひとりで行くのが好きだ。いや、ひとりに大きなこだわりはないのだが、どうも付き合ってくれる人が見つからない。

そんな訳で、やっとジャンブー村に行くというバスが来て乗り込むと、朝だからなのか単に利用者が多いのか、バスが停まるたびに割とたくさんの人数が乗ってくる。そして、まあ、見てくる。私という得体(えたい)の知れない外国人を。

バスの中にはお調子者キャラの8歳くらいの子がいて、拙い英語で話しかけてくる。「名前は?」「何人なの?」とか、そういう質問をされ、そして質問に正直に答える。

すると、私の名前、国籍、そしてアフリカに起源を持つインド人「スィッディー族」に会いに行くためにジャンブー村に行きたいという私のプライベートな情報がバスの乗客に一斉に知れ渡っていく。

ここにプライバシーなどはない。目新しい情報が凄(すさ)まじいスピードで拡散されていくのは、どこの田舎も一緒だ。

「存在が許されている気になる」知らなかった世界を前に思うこと

宿のあるデーウから出発すること3時間、「ジャンブー村に着いたよ!」と言われ、降りてみるとただの道だった。道。しかし、少し視線を外側へと向けると、明らかにアフリカに先祖を持つであろう女性とその子供がいる。その光景を見て、少し感動してしまったのだ。

見たかった光景が、目の前に広がっている。Googleで検索してみても論文が2つ出てくるだけで、行き方もよく分からない。情報が定ではないなか、なんとかなるだろうと向かった村。やっと着いた!し、本当にいた。それだけで、大きな感動を覚えてしまったのだった。

そもそも私は、「絶景!」「インスタ映え!」という、いかにも人にウケそうな景色にあまり興味がない。目的地にあれば行くし、写真も撮る。きれいだとは思うが、それ以上の熱量はない。

ネットで検索をすればいくらでも出てくる景色。みんな同じ構図で撮る写真。そこに群がる人たち。そりゃ、旅行を好きになった頃は大きな感動を覚えたけれど、今となっては「こんなもんかな」というくらい。もう一生行くことはないのかもしれないのにね。

それよりも、人の生活に興味を持つようになった。宗教色が強く、独特な文化を持つほどよい。胸がときめく。同じ人間なのに、こんなにも考え方や生活習慣が異なっている。それなのに、喋れば大体同じような価値観を持ち合わせていて、人間としての本質的な部分は変わらない。

同じ部分、まったく違う部分、そして少し似ている部分、そのひとつひとつに愛おしさに似た感覚を覚えるのだ。自分の知らなかった世界が、目の前に広がっている。こんなにもたくさんの、自分とはまったく異なった考え方の人がいる。人との触れ合いの中で、私は存在することが許されているような、生かされているような気さえしてくる。

モスクの様子。

モスクの様子。

「この差別と友達であることは無関係なのだろうか」

ここが、本当に村なの……? 周囲には商店も飲食店も何もない。立ち尽くしていると、親戚の家に遊びに行くという19歳の娘と母に声をかけられ、お昼ごはんをごちそうになることになった。普段なら、断っていただろう。旅先で声をかけられ、ばか正直についていくのは何かのトラブルになりかねない。あり得ないことだった。

でも、信じられるような気がした。2人から漂う品の良さ、一生懸命覚えたであろう拙い英語、そして直感が「大丈夫」だと言っている。それに私は身長も高く、体力もある。女性2人であれば、振り払って逃げることは容易だろう。

3人で道なりにゆっくりと歩いていく。周囲には干上がった川や見慣れない果物のなった木が生い茂っている。街の中心に向かえば向かうほど、インド人の顔をした人が多くなり、人の生活が見えてくる。

歩くこと10分、親戚が住んでいるという家に着くと大きな門の中に、2つの家族が住んでいた。田舎だからなのか中は広く、裕福なのだろうな、と思う。掃除も行き届いていて、キッチンも3つある。彼女のおじは、衣類を扱う小さな店を構えている。お客さんもよく買い物に来ていた。

キッチンの様子。やはり、スパイスは常備されている。

キッチンの様子。やはり、スパイスは常備されている。

お昼までしばらく時間があったので、「ドゥルドゥル」という名のサトウキビを絞って固めた異常に甘いお菓子の製造工場やモスクを見学して回る。

インドの激甘お菓子。これは天然もので、少し高価なんだそうで。

インドの激甘お菓子。これは天然もので、少し高価なんだそうで。

サトウキビの搾りカス。乾燥させたあと、どうするのだろう……?

サトウキビの搾りカス。乾燥させたあと、どうするのだろう……?

カースト制度はヒンドゥー教に由来するものであり、奴隷として連れてこられたスィッディー族の先祖はカーストに所属しない人として差別され続けてきた。低いカーストが由来で生じる差別から逃れるため、仏教やイスラム教に改宗をする人は多い。

そのことも関係あるのか、モスクにはスィッディー族の姿をたくさん見かけた。お母さんが友達としてひとりのスィッディー族の女性を紹介してもらったが、この差別と友達であることは無関係なのだろうか。それとも、改宗しさえすれば、一切の差別感は払拭されるのだろうか。このあたりの心理が気になる。

お昼には当然のようにカレーをいただく。クジャラート州のカレーはスパイスが効いていて辛め。肉も魚も使用せず、豆や野菜が中心なのだが、これがまたおいしい! 楽しく話をしながら、大きなお皿に乗せられたチャパティやデザートもたいらげる。

ランチの様子。カレーはいつ食べても美味い!

ランチの様子。カレーはいつ食べてもおいしい!

ランチで食べたお菓子。ほどよい甘さで美味しい。

ランチで食べたお菓子。ほどよい甘さで美味しい。

それから、なぜか友達の家に連れて行かれ、10人くらいから写真を撮られたり、見知らぬインド人の女の子と電話をさせられたりする。

インド人は本当に写真が好きで、カメラをぶら下げて歩いていると、「撮って!」とお願いをされる。さらにここは外国人が来ないということもありなぜか有名人のごとく写真を撮る羽目になる。

今回は11日間の旅行だったが、私の写真を持つインド人は100人を超えているだろう。でもね、いいんです。思い出のひとつとして「あんな外国人がいたな」と思ってくれれば、それで。

それから、連絡先を交換したあと、同じバスに乗って、夕方にはデーウへと戻ることができた。

今考えれば、こうして人の生活をまじまじと見るのは久しぶりであるような気がする。女の子から声をかけてもらえ、かつ英語が話せるというのも珍しいケースで、とてもいい時間を過ごせたように思う。

連れられた家で、何かを乾かしていた。花びらみたいできれい。

連れられた家で、何かを乾かしていた。花びらみたいできれい。

「私は、どちらかと言えば差別をされてきたほうだ」

本来の目的は、スィッディー族を見に行くことだった。見に行って、何をするんだろうね。分からないが、すごく魅力的に思えた。「行きたい!」と思ったのだ。少ない文献を読むたびに、胸が躍る。19歳の子が言うには「彼らはかなり貧乏なんだよね」とのことで、農業を営んでいる人がほとんどらしい。

街の中心から川を2つも挟んだ場所に住み、家も恐らく手作りだろう。電気も水もないようなところで、服も見るからにボロボロだった。元々そこに住むインド人とは接点も少なく、同等の生活をしているとは思えない。同じ村に住みつつも、大きな差別がそこには当然のようにあり、人々が当たり前の顔をして生活をしている。

川の様子。上流では、スィッディー族の女性たちが洗濯をしていた。

川の様子。上流では、スィッディー族の女性たちが洗濯をしていた。

私は、どちらかと言えば差別をされてきたほうだ。女性として、黄色人種として、日本人として。そして、容姿の整わない「ブス」として、「女らしくない」人として。

きっと、他にもたくさんあるだろう。この差別ってどこから生まれるんでしょうね。

性別や肌の色、国籍が違うくらいでなぜ他人と自分が違う人間であるように思えるんだろう。人に迷惑をかけていないのに、なぜ私は「ブス」だとばかにされ、「もっと男性に気に入られるように」と強いられなければならなかったんだろう。

そして、この類の差別心は誰の心の中にも必ずあるものだ。0に近づけることはできても、まっさらにすることは難しい。

インド国内だってそうだ。道を歩けば、必ず物乞いがいる。お金や食事、何かをせがまれ、ほとんどの場合無視を決め込む。哀れみの気持ちから何かを渡しても、無意味だからだ。

この人と私は同じ人間であるはずなのに、少しでも差別の心がないと言い切れるのだろうか。どこか線を引き、違う人間だと思っている自分がいる。

ただ、日本人として、女性として生まれ、たまたま観光客としてインドに来られただけなのに。自分の中でのこの差別心や根源は、興味深いトピックのひとつになっているように思う。

部外者の私は、彼らにできることは何もない。では、自分の周りで同じことが起きたとき、一体私は何ができるのだろう。

インドに来るたびに、いろいろなことを考える。いい面だけではなく、悪い面を見ることもある。自分にとっていいことばかりではないのに、どの人もひた向きに生き、そして生き生きと未来を見据えているように感じる。この活力はどこから生まれるのだろう。

彼らの生に対する前向きな気持ちが、いつも私を正してくれるのだ。

情報元リンク: ウートピ
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