安楽死を選択した母をみとるために家族が集まった週末の出来事を描いた映画『ブラックバード 家族が家族であるうちに』(ロジャー・ミッシェル監督)が6月11日(金)に公開されました。アカデミー女優のスーザン・サランドンとケイト・ウィンスレットの初共演も話題の同作について、作家の鈴木涼美(すずき・すずみ)さんに寄稿いただきました。
曖昧で不気味な母と娘の境界
「もうあなただけの身体じゃないんだから」という映画や漫画に頻出する退屈なクリシェを、結婚もしていない、扶養家族もいない私は残念ながら言われたことがない。だからといって私の身体が首尾一貫して私のものだったかというと、生まれてすぐの頃の私に実質的な自分の所有権などなかったわけだし、思春期に私が私自身を乱暴に扱うようなことをして傷ついたり怒ったりするのは私ではなくて母だったわけだし、自分の輪郭というのは曖昧で、皮膚の一部はどこかと繋がっていたり、傷口のように外に開かれていたりするものなのだとは思う。
特に、かつて乳飲児だった自分を所有していた母と自分との境界は、多くの娘たちにとってとても曖昧かつ不気味に変わり続けるもので、だからこそ痛みを伴って繋がりを引きちぎるような反抗や、監督権争いのような確執が頻繁に起こる。少なくとも一定の時期までは、自分にとって自分自身以上に絶大な影響力を持っていた母という存在を愛することはとても難しいが、母を受容しない限り、その母と繋がった自分の人生を肯定することができない。逆に、自分の人生にある程度納得できない限り、その人生を生み出した母を本来的な意味で受け入れることができない。だから娘たちは、到底無理と思えても愛さなくてはならない、と格闘し、愛したいと格闘しながら、やはりそうそうできた芸当ではない、と落胆を繰り返すのだ。
「正しさ」に縛られた長女と「正しさ」に頼らなかった次女
映画「ブラックバード」は、不自由になっていく身体を抱えて、安楽死による人生の幕引きを決意した母の元に集まった家族の最後の週末を描く。家には、合法ではない安楽死を決意した母、その決断を尊重してサポートする医者の父、頭が固くやや保守的な長女とその夫と息子、複雑で不安定な次女とその同性パートナー、母の昔からの親友が集まり、家族の需要と構築について最後の格闘をする。我が強く、意志のはっきりした母は決断に他者を関与させず、母の性格を良く知る父もまた決断に強く関与しようとはしない。自由奔放な若い頃から母とつるんでいた親友も、尊厳死という選択には寄り添うだけで意見したり阻止したりする発想はない。
複雑なのは娘たち二人だ。頭で考える正しさに縛られがちな長女は、母の決断を支持すべきであると思い込むが、これもまた、自分が関わったところで意志など揺らがないであろう強い母に育てられた者の持つ呪縛の一つにも見える。自由で強い母のもとで育つ過程で、その自由さに翻弄されすぎないように、また母の強さに取り込まれないように、ある種の世間的な正しさをインストールして、自分の気分や精神的な揺れに重きを置かない癖がつく。自由さや強さの代償をよく知る彼女が、一般的な意味で真っ当でお固い家庭をつくっているのは納得がいく。
ただ、自分の意志で決めなさい、自由に生きなさい、強くありなさい、という母の子育てを最もまっすぐ受け止め、その直撃の中で苦しんだ形跡が見えるのは次女のほうだ。複雑で反抗的に見え、世間的な正しさに頼ることなく生きようとする次女は、母の愛の呪縛のせいで、自分の弱さを母に見せることができず、また自らも弱い自分を受け入れられない。だから自分の気持ちがボロボロになった時、助けを必要としている時も、旅行に行ったと嘘をついていた。母の理想とする強い女性のイメージが、何より自分の育った家庭の中に、自分を産んだ女によってはっきり示されているため、自分がそのようには生きられないのだとしても、その弱い姿をさらけ出すことを否とする。
母の決断に唯一真っ向から反発するのはこの次女で、まだ死んでもらっては困る、「もっと私のことを知って欲しいし、私ももっと知りたい」と訴える場面は映画の一つのハイライトだ。それはこれまで母に見せることのできなかった弱い自分を、誰より母に受容させなければ、今後自分は母に見せていた偽りの強さから離れずに生きなくてはいけないという直感が働いたからのように思える。嫌悪よりも、否定よりも、愛よりも、もっと複雑な、母と自分は別々の人間であるという事実と、それでもお互いを受け入れることができるという可能性を、母が存在しているうちに合意しなければ、かつての所有者であり未だに支配者でもある母のいない世界を生きるに耐えうる自分になれないと思ったのかもしれない。
自由に生きなさいという母の呪縛
私もまた、強く自由な女に育てられた娘だから、次女の足掻きには共感する点も多い。同時に、過度に常識人になった長女にも似ているところはある。大胆で、支配的で、個性的だった母は私に、自分の人生を思うように切り開く気概とガッツを期待していた。自分で望んだ自由であればそれは人を何より満たすが、母に付与された自由はひたすら娘を不安定にする。くだらない拠り所を求めることもあれば、くだらない遊びに精を出すこともあるし、逆に母には押し付けられなかった正しさの檻を自分で用意してしまうこともある。母が不自由で弱いときに娘の多くはその弱さに苛立つが、母が自由で強いときに娘の多くはどこかしら自分の弱さに苛立つのだ。私もまた、母の強さを目の当たりにして、その母が私に常識を押し付けなかったことによって、自分の凡庸さを受け入れるのには時間を要した。
支配的な母と一言で言ってもその力は多様で、娘の私生活や進路や恋愛やファッションにまでしつこく関わってこようとする場合もあれば、自分の自己肯定感を娘にも知らぬ間に強要している場合もある。あらゆる母の愛は娘にとって難儀なもので、不自由な母に育てられる者にはその者なりの、強い母に育てられる者にはやはりそれなりの困難があるのだろう。ただ、受験や生活に過干渉な母や、父の言いなりになる弱い母など、ステレオタイプ化された難儀な母親像に比べて、現代を生きる自由で強い女性の母としての側面は、近代の母親像と比べるといまだ新しく、またそれを否定することが難しいために、娘の直面する困難もあまり理解されないというつらさがある。命令口調で縛ってくる母の支配を否定することは他者から見ればそれほど複雑なものではないが、自由に生きなさいという母の呪縛は世間的には肯定されがちだからだ。
「母の愛」という厄介なそれ
エーリッヒ・フロムは「愛するということ」の中で、条件付きの「父の愛」に対する、本質からして無条件な「母の愛」という概念を説明している。そこで母の愛が無条件であることの否定的側面として、「愛されるのに資格がいらないということは、反面、それを手に入れよう、つくり出そう、コントロールしようと思ってもできるものではない」点を挙げる。母の愛について、その存在が自分の意思ではどうにもならないものであるという事実は、娘にとって幸運なことでもあり、残念なことでもある。愛されているということが、多くの娘にとって理想ではあるものの、何の理由もなく起こっていることだからこそ、何か常に、自分はそれに値するのかどうかの確認がとれず、その愛というものに素手で触ってみたくなる。母が自分の意志で、もうすぐこの世からいなくなると決めていたならなおさら、急かされるようにその形を直に見て見たくなるものなのかもしれない。
尊厳死は複雑な問題である。高度に医療が発展し、ほとんど意思疎通ができなくなった祖父母が、自分の意思とは関係なく病院で管に繋がれ、生かされている状態を見たことがあれば一度は、安楽死について考えたことのある現代人は多いだろうと思う。それなりに年老いた人であれば周囲も肯定しやすいが、ではそれを認めるとしたときに、若い人だったら、子供だったら、延命の可能性がどれくらいあれば、と条件なんていうものが作れるのかどうかは疑問だ。そして母と娘のように、間にはっきりとした境界がないような関係であった場合に、片方の意思はそれを絶対として尊重されるべきなのか、深く関わりのある者の意思は介在しないでいいのか、という問題もある。強烈で魅力的で、自分の死までコントロールしてしまうほど意志と支配力の強い母の尊厳死について語ることは、その母から自由になりきれない娘たちについて語ることにもなる。家族、親子という人間の宿命的な関わり合いを自分の中でどう位置付けるのか、死に追い込まれた母と娘たちの姿から、浮かび上がることはあまりにも多い。
■映画情報
『ブラックバード 家族が家族であるうちに』2021年6月11日(金)TOHOシネマズシャンテほかにて公開
【配給】プレシディオ、彩プロ
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情報元リンク: ウートピ
私の身体が私だけのものではないとして…『ブラックバード』が描く“強くて自由な母”の呪縛