まもなく元号が変わろうとしているのに、私たちをとりまく環境は何かと騒がしい——。それは、私たちが常に今を生きていて「これまで」と「これから」の間で葛藤を繰り返しているからなのかもしれません。
その葛藤や分岐点とどう向き合うべきか。エッセイストの河崎環さんに考察していただく連載「5分でわかる女子的社会論・私たちは、変わろうとしている」。
第8回は、酒井順子さんの著書『家族終了』(集英社)を通じて、“家族”について考察していただきました。
家族が終わる、とは
自分が生まれ育った家族のことを「生育家族」、結婚などすることによってつくった家族を「創設家族」というそうですが、生育家族のメンバーが自分以外全て、世を去ったのです。
私は、
「家族って、終わるんだな……」
と、思ったことでした。兄は妻と一人の娘を遺しましたが、彼女たちは兄の創設家族のメンバー。私にとっての生育家族ではありません。そして私は、同居人(男)はいるものの婚姻関係は結んでいませんし、子供もいない。「家族終了」の感、強し。
——『家族終了』(集英社/酒井順子)
非婚社会化が進み、現在の日本の30代のうちおよそ3分の1が生涯未婚で過ごすと試算されています。それは、「憂うべきこと」なのか、それとも「まあ、そんなものだよね」なのか。人によって感想はさまざまでしょうが、とにかく、割と世間では「婚活、コンカツ」「モテ、モテ」言っている声が大きいような印象があるものの、データの上では非婚・非産時代の到来です。
少子高齢化が進み、人口が減る。労働人口が減る。税収が減る。そんな危機感から、年老いた政治家たちは、「そうだこれは嫁がない、産まない若い女たちのワガママがいかんのだ嘆かわしい」となぜか女の側だけを一時期責め立て、「若い女」の迎撃を受けて血を見ていました。
過去に思考を固定してしまうと、期待に沿わない結果を目の前にしたときに犯人探しをする発想になりがちですが、社会が変質するときの動機とは、ワガママとか怠惰とか甘えとかそういうことじゃない。人間は生存するためにそれぞれの方策を考え抜きますから、生存戦略上、結婚することや子どもを持つことにメリットが感じられなくなると、人々は「男女両サイドの判断として」そうしなくなるのです。
これは良い悪いとか倫理の問題じゃない。人としての喜びがどうとか、幸せがどうこうとかの「べき論」が発動されて何かが変わるような場面でもありません。まして人々が無知なわけでも、賢くなりすぎたからでもない。
私たちそれぞれが現代に「真面目に」適応し、自分の状況に見合った生存戦略を「真摯に」とり、それこそ「置かれた場所で咲いた」結果として、厳然と、私たちの社会はやせ細っていくことになったのです。
「家を続ける」という価値観が役目を終えた理由
私が死ぬ時に、私の中だけで温めていた家族の記憶も完全に無くなるのだなぁ。
……と思うわけですが、ではそれが悲しかったり寂しかったり無念だったりするかといえば、「別にそうでもない」のでした。そうなってしまったものは、もう仕方がない。
…(中略)…
そして今、日本では、このような感覚を持つ人が少なからぬ数で存在しています。「家族終了」の現場に立ちつつも、家族の記憶が消えていくことにさほどの痛痒感を覚えない私のような人がたくさんいるからこそ、日本の人口は減っていくのです。
——『家族終了』(集英社/酒井順子)
少子高齢化が先進国病と呼ばれるように、多くの国がこのような結婚・出産における変質を経験しています。離婚や再婚が宗教や社会的にタブーではなくなり、医療の発達によって女性一人当たりの出産数が減り、やがて結婚や出産という「人類の繁殖」に意味を見出さない考え方が社会権を持つようになってきました。
「家を続けねばならぬ」という、今となっては古い強迫観念。それは社会学的には、日本社会が父系直系の長男に財産の継承をさせてイエなるものを存続させるシステム(権威主義直系家族制)を採用していたがゆえに、男であれ女であれ関わる人々の意識の中で自分の生存(食い扶持)と家族が密接な関わりをもっていたあらわれです。
長男なら、継承したイエ(財産や農地)をリソースとして自分の新しい家族を作る代わりに、イエに所属する他のメンバーを食べさせていく責任を負いました。継承できない次男三男は直系家族では余剰人員となるため、僧侶や雇われ奉公という形で家から切り離され、そこで自分の食い扶持を確保するべく努力したのです。
戦後、産業構造が変化し、長男であれ次男であれ人々が都会へ流入して「サラリーマン」として雇われ、会社に人生を囲われる形で家族を作るスタイルが経済発展の都合優先で広まると、メディアに描かれる現代日本家族なるものは小さくシンプルになりました。大黒柱の夫と専業主婦の妻と、子ども2人。それが、民主主義国家となった現代日本らしい幸せな標準形なのだと描かれました。
ところが、その「民主的な海外」からやってきたはずの生き方、「故郷をあとにし、イエの重圧(農地)から解放された長男たちの都会生活」は、それまでイエからはじき出されていた次男三男との差が小さくなったということでもあります。誰もが、イエ(財産)の継承から離れて人生を構築可能になった。長い間農耕生活を送っていた日本人にとって、かつては生産手段であり、繋がりの強固なコミュニティであり、子育てや介護、文化伝承の現場でもあったイエは、広義のセーフティーネットでした。ところがそれらはすべて日本の先進国化と民主化によって、社会サービスとなりました。男性も女性も、企業の雇われ人として過ごす人生に、生存のための「イエ」制度は必要なくなったのです。人々の生存戦略上、必要なものでなくなれば、それは役目を終えるのです。
それでもこだます家族への郷愁は、嘘ではない
酒井順子さんは、かつて『負け犬の遠吠え』(講談社)で結婚しない女性の生き方を自虐の形を借りながらも誇り高く論じ、その後『子の無い人生』(KADOKAWA
)でも、子供を持たない女性に起こるさまざまな出来事を描きまし。2019年3月に発売された『家族終了』(集英社)では、非婚・非産を選んだ自身が両親と兄を看取った結果、自分が生まれ育った生育家族のたった一人の生き残りとなった感慨を「仕方がない」と淡々と綴ります。
でも私は、「家族終了」した酒井さんが落ち込んだり迷ったりしたときに心の中で叫ぶと書いている「お母さーん」や、自宅に飾られた写真を見て語りかけるという「おばあちゃーん」「会いたいなぁ」の声が遠くこだまするのを、どこかでふと聞きとめたような気がします。
両親や兄や祖母、生育家族と送った日々を懐かしく思う郷愁。でもいまそれが自分の代で終了するのを目の前にしても、それは仕方ないと言い切る諦念。二つの思いの間を揺れる女性の姿が、この本には描かれています。
実は本書『家族終了』では、『負け犬の遠吠え』の時代には家族が存命であったために書けなかったという、酒井さんが結婚を選ばなかった本当の理由がつまびらかにされています。詳細は本に任せるとして、酒井さんは家族という制度への不信感を述懐しています。
それを読んで思ったのです。ひょっとして、私たちは「家族」に期待をしすぎていなかったか?
家族というシステムを賛美し、信用しすぎていたのではなかったでしょうか。仲良し家族とか温かくて美味しいご飯とか、なんでも受け入れてくれる我が家とかなんとか、「普通の家庭」とはそういうものであるべきだと信じてしまったのでは。だからそうでない現実を目の前にして失望したり、自分がそんなものを作れるだろうかと不安になるのではなかったのでしょうか。
立派で素敵な家族なんてものは他人が与えてきた幻想や金科玉条であって、家族なんて突貫工事で不備欠陥だらけ、慌てて継ぎを当てるような不完全なもの。それが時間をかけてやっとどうにか形になったりならなかったり、そんなもので本当は良いのではないか。家族なんてそんなもの、と大きな期待をしなければ、家族を持つことにそこまで「覚悟」や「不自由」を感じずに済むのかもしれないな、と、まさに突貫工事で勢いで家族を持ってしまい20年以上経つ、考えなしの私は思います。
本日の参考文献:
『家族終了』(集英社/酒井順子)
(河崎 環)
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情報元リンク: ウートピ
私たちは「家族」に期待をしすぎていないか?【河崎環】