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生きるために、0歳の我が子を乳児院へ 1年間離れて暮らして思ったこと

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ステージ4の末期がんから奇跡的に回復を遂げた私。海野優子、36歳、会社員。病気になる前は「仕事が命!」ってタイプで、これまで努力で何とでもなると思ってがむしゃらに過ごしてきました。

そんな私でしたが、病気を経験し、世の中にはどうにもならない事があることを知りました。現在の私は、なんとか生き延びて「わざわざ生きてる」のに、再び東京のど真ん中で子育てと仕事の両立に奔走される日々を過ごしています。そんな私の考えの変化についてつづっていくこの連載。前回は「授乳を諦めたこと」についてお話ししましたが、第4回はそれに引き続き、産まれたばかりの娘を乳児院に預けた1年間のことについてお話したいと思います。

私が死んだら、赤ちゃんは誰が育てるの?

娘が産まれて数日後、医師から末期相当のがんであることを伝えられた私が、絶望的な気持ちに浸る間もなくまず最初に思ったこと。

「私が死んだら、この子は誰が育てるの?」

以前にも書きましたが、私のがんは特殊なものだったために「余命がどれくらいなのか」も予測が難しい状況でした。ただ、すでに腫瘍の大きさは直径14cm以上。これだけ大きければ他の臓器への転移も考えられます。医師も、夫も、誰も余命について言及しませんでしたが、おそらく3ヶ月、いや、下手したら1ヶ月くらいの命でもおかしくないだろうと察していました。その、驚くほど実感のわかない悲しい現実を飲み込む前に、まず私たち夫婦が考えなければならなかったのは、「産まれてきた娘をこれからどうやって育てていくのか?」という問題でした。

残りわずかの人生を、全て娘に捧げたい…でも

乳幼児は産まれてから数ヶ月間、昼も夜も関係なく3時間おきに授乳が必要で、母乳やミルクを飲みます。最近では夫婦で一緒に育休をとって、「2人して毎日寝不足です!でも、めっちゃかわいいです〜!!」みたいなSNSの投稿も見かけるようになりました。けれど、大人2人がかりでも、産まれたばかりの赤ちゃんを育てるのは大変なことです。体力を必要とする抗がん剤治療をしながら乳幼児を育てることは、とてもじゃないけど難しい状況にありました。

本当だったら、幸せいっぱいに自宅に帰って、真っ白な乳幼児ドレスを着せて写真を撮ったり、初孫に湧くお互いの両親の幸せそうな顔を見て親孝行を実感したり、長年付き合いのあるお友達をおうちに招いて我が子を抱いてもらったり——。当たり前にできるだろうと想像していたあらゆることが、もう自分にはできないんだと痛感しました。残りわずかの人生を、全て娘に捧げたい!と思っても、それすら叶わないのか、と。

ただ、私に悲しんている時間はありませんでした。わずかな可能性であっても、生きることを諦めきれなかった私は、このとき想像していた幸せを全部捨てて、治療に専念することにしました。

どん底だった私を救った「乳児院」という場所

途方に暮れていた私たちに、担当の医師からケアマネージャーを紹介されました。彼女に私が置かれた状況を一生懸命説明し、これから子育てをどうしていけばいいのか相談をすると、初めて「乳児院」という場所があることを教えてもらいました。

「乳児院」とは、さまざまな理由から保護者との生活が困難な乳児(主に0歳児から2歳児)を預かる施設で、地方自治体などが運営しています。保育園などと大きく異なるのは、24時間すべてを乳児院で過ごすことになるという点です。私のような家族の疾病によるケースで利用するのはごく稀で、虐待や育児放棄などを理由に入所してくる子も多いとのこと。ただし入所できる人数に制限があり、入所待ちが必要な場合や、地方の乳児院しか枠がない場合もあると聞いていました。ところが、私の娘は幸にして自宅からさほど遠くない乳児院に入ることができました。

最初にその話を聞いた時、とてもほっとしました。自分ではない誰かが、代わりに娘を育ててくれる。良かった。日本、ありがとう。いっぱい働いて税金納めた甲斐があったよ。これで、娘の育つ環境と、私が治療に専念する環境が整いました。

あのときの私の心境を表すなら「不幸中の幸い」。乳児院が決まるまでたくさんの幸せを捨てたと思って泣いていたのに娘が私のいる場所からほど近い場所で育ってくれる、なんてラッキーなんだろう!

副作用よりも、辛かったこと

しかし、そう思えたのは最初だけでした。今思えば、がんになって本当に辛かったこと。それは、どんな副作用よりも産まれたばかりの娘と離れ離れで生活しなければならなかったことでした。

乳児院は、さまざまな事情を抱えた子供たちが育つ環境であるため、セキュリティ面においてもかなりの徹底ぶりで、実の親であっても面会時間は一日のうち指定された数時間のみ、しかもいつも同じ会議室でした。4人用会議デスクに赤ちゃん用のタオルケットを敷き、そこに娘を寝かせて、だいたい2時間ほど顔を見て帰る、というのが日課でした。死んでしまうその日まで、少しでも娘と一緒に過ごしたいと思う私の気持ちを汲んで、仕事で忙しい夫や、埼玉に住む実母がわざわざ出てきて面会に付き添ってくれました。

乳児院の会議室での面会時間。まだ抗がん剤で髪が抜ける前。

乳児院の会議室での面会時間。抗がん剤で髪が抜ける前。

毎週訪れる、お別れの時間

私の治療が思いのほかうまくいき、回復に向かってからは、土日だけ娘の外出許可が下り、丸2日間を一緒に過ごせるようになりました。子育てをフルに経験していない私は、ちょっとでも母親らしいことがしたくてたまりませんでした。夫は、がんの影響で足が動かない私が夜中、娘にミルクをあげられるように(もちろん母乳ではなく、市販の粉ミルク)ベッド専用のデスクに粉ミルクと給湯ポットを設置してくれました。

けれど、日曜になると、お別れの時間がやってきます。17時までに娘を乳児院に戻す必要があったのですが、乳児院の駐車場に到着すると、時間ギリギリまで車の中で娘を抱いていました。いよいよ時間になると、夫が娘を抱いて職員に預けに行きます。車の窓から、乳児院のガラスの扉越しにその様子を見ていると、自然と涙が溢れてきます。私の子なのに、どうして離れなきゃいけないんだろう。なんで知らない誰かが抱っこして、連れて行ってしまうのだろう。なんで病気なんかになってしまったんだろう……と。車に戻ってきた夫は、えんえんと泣き崩れる私の背中を優しくさすってくれました。

悪くはなかった、乳児院での1年

「知らない誰か」なんて言ってしまいましたが、乳児院の職員さんたちは1年間、娘を本当に大切に預かってくださいました。おかげさまで娘は現在、物おじもせず、堂々としていて、人見知りもいっさせず、自己肯定感の高い子に育っております。保育士さんのプロ意識は私も夫も目を見張るほどで、娘が悲しい思いをしないようにか、お誕生日やクリスマスには実際にプレゼントを用意してくださったり、退所後にものすごい量の写真と、その時の様子を日記に納めたアルバムを送ってくださったりもしました。

また、母子手帳に記載のある赤ちゃんの定期検診や歯科検診、あるいは、ものすごい数を受けなければいけない予防接種にいたるまで、すべてお任せすることができて本当に助かりました。入所中、一度だけ娘が肺炎になり入院をするという事態になったときも、病院探しから入院手続きはもちろん、朝から夜、娘が眠りにつくまで親の代わりに付き添ってくれました。

*上記は娘が入所していた乳児院の対応の一例です。乳児院での生活、相談については最寄りの乳児院や児童相談所、民生委員・児童委員、主任児童委員または福祉事務所などにご確認ください。

寂しい思いもしたけれど、おかげさまで心置きなく治療に専念でき、今ではこの1年間が私にとっても、娘にとっても、悪くない1年間だったんだなと思えるようになりました。

天真爛漫な娘はもうすく3歳

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生きているから、知った「母」としての自分

現在このような執筆活動も含め、ちょっとしたお仕事に加えて、治療とリハビリに取り組んでいるわけですが、そこに「子育て」が加わることで、毎日が目まぐるしいスピードで進んでいます。この連載のタイトルにもなっているけれど、“せっかく”生き延びたのに、前と変わらず毎日余裕のない生活を送っています。普通のお母さんと同じように、イライラして、小さなことで娘を怒ってしまい、自己嫌悪になることもあるけれど、そんな自分も、死んでしまっていたら出会えなかった自分、生きているから出会えた新しい自分なんだと、思うようにしています。

カーペットにジュースをブチまけられて叫んでる自分、娘のおもちゃが部屋に転がっていて車椅子が前に進まない可哀想な自分、そして、過去離れ離れで寂しい思いをした自分——。日々の生活の中で、悲しいことや辛いことは誰にだってあります。自分を責めたり、慰めたりするようなことも、「生きてるからこそ出会えた自分」と思うことで、いまは人生の程よいスパイスくらいに思えているような気がします。これからどんなしんどいことが待ち受けていたとしても、「私、生きてるわ〜〜!(笑)」って、人生を噛み締めるように乗り越えていければいいなあと思います。

情報元リンク: ウートピ
生きるために、0歳の我が子を乳児院へ 1年間離れて暮らして思ったこと

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