この前、社内の人とトラブルがあり、第三者に入ってもらって解決しました。無事解決できたのはよかったのですが、第三者に「まあ、あの人も悪気があるわけじゃないから。よかれと思ってやったことだから許してあげて」と言われて「えっ」と思いました。社内だったからよかったものの社外の人に同じことをしたら問題になると思います。
人間は間違いを犯すものだし、私もしょっちゅうやらかしているのでなるべく人の失言や失敗には長い目で見守ろうと思っています。ただ、「あの人に悪気はないから」と許されてばかりの人や「悪気はなかった」が口癖の人を見るとなんでこっちばかりが我慢しないといけないんだと腹が立ちます。もっと言えば「よかれと思って」の約9割はお節介だから何もするな! と思ってしまいます。私の心が狭いのでしょうか?
悪気がないほうが厄介
「悪気はなかった」という言い訳を無敵の免罪符として取り扱う人も多いのですが、せめてその言動に悪気があれば、善悪の判断ができているということなので、その後の対処も和解すればいいだけなので簡単なんですよね。
本当にその言動に悪意がなかったとしたら、その人は善悪の判断すらまだできていないレベルということなので、まずは初歩的なことから指導しなければならないということ。
むしろ悪気がなかったケースのほうが、指導レベルで言えば厄介なんですよ。
悪気があったかどうかは実はどうでもいい
それでも素直に反省してくれる人ならまだ伸びしろも期待できるのですが、「悪気はなかった」の一点勝負で免罪にしようとする人は、指導をしてもふてくさり、揚げ句の果てには逆ギレまでしやがる始末ですからね、こちらとしてはもうお手上げですよ。
そもそも悪気があったかどうかなんて実にどうでもいい問題。
論点は誤った言動であって、べつに言動さえしっかりしてくれたら悪気を持っていようが何も問題はないんです。
「嫌いなら嫌いで結構、悪気もあってよろしい、でも仕事だけはちゃんとしてね」と言いたいだけであって、「仲良しこよしで仕事をしましょうね」と言いたいわけではないんです。
微妙に論点がズレているだけならまだ話し合いの余地もあるのかもしれませんが、「悪気はなかった」という言い訳は完全に別次元の論点ですからね、懸け離れた次元の違いに腹が立つわけですよ。
別に敵対する奴(やつ)をとっ捕まえて完膚なきまで人格もろとも叩き潰し暴言暴力で支配して手駒のように使ってやろうという気なんてさらさらなくて、かといってお手手つないで仲良くお花畑でお仕事をしようとする気もさらさらなくて、ただただ誤った言動を反省して学習し、そして改めてほしいという切なる願い。
そんな細やかな願いさえ「悪気はなかった」という頓珍漢(とんちんかん)な言い訳で却下されてしまうわけで、届かぬ思いに憤りを超越して虚(むな)しささえ覚える心境ですよ。
なんならもう「私にも悪気はないので、どうか話だけでも聞いていただけないでしょうか?」と平に平にお伺いを立てたくなってしまいます。
失敗を許す許さないの問題ではないんですよね、せっかく失敗したんだから学習してほしいだけなんですよね。
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