スーパー・ファミコンやカセットテープ、ストリート・ファイターなど1990年代を象徴するアイテムが登場し、思わず懐かしさを覚える青春映画『mid90s ミッドナインティーズ』が公開中です。
実力派俳優のジョナ・ヒルによる初脚本・監督作品で、日本でも話題になった映画『ミッドサマー』や『レディ・バード』などで知られる映画スタジオ「A24」が製作を担当。1990年代の米ロサンゼルスを舞台に、シングルマザー家庭に育った少年・スティーヴィーがスケートボードを通じて仲間と出会い、自分の居場所を見つけ、大人の扉を開いていく様子を描いています。
映画と音楽が大好きでエッセイ『孤独も板につきまして』(大和出版)も話題のライターのあたそさんに寄稿いただきました。
Contents
「男らしさ」「女らしさ」って何だろう?
「男らしさ」や「女らしさ」って一体なんだろう、とよく思う。どうして私たちは自然と「女性らしい」振る舞いができるようになり、どこで「男性らしい」の定義を知るのだろう。個人や時代によって定義が左右されるが、なんとなく自分のなかで整理され、意味合いを理解することはできる言葉ではある。
『mid90s』を見ていると、やはり生まれ持ったものではなく、環境や周囲からジェンダー的な役割を与えられ、学習していくのだと改めて実感した。この映画の中において、特にこの映画の舞台である1990年代半ばにおいては、上級生・先輩たちの振る舞いを見て、社会のなかで「男らしさ」への理解を深め、身につけていくのだろう。これは、日本でもよく見かけた光景ではある。
たった1歳年上というだけで大人だった
大人になった今では年齢差や体格差を感じる機会はなくなったが、小学生・中学生の頃は、たった1歳年上だというだけで、上級生が大人っぽく見えていたし、先輩に気に入られる自分が誇らしくもあった。憧れだった。自分には手の届きそうにない、ずっとかっこいい存在だった。兄や姉だってそうだ。部屋に行けば、いつも知らない漫画や小説、CDがあったし、自分よりもずっと広い世界を持っていた。
私は3姉弟の長子であるのだが、部屋からよく漫画がなくなったりCDを貸したりすることが日常的であった。兄姉が新しい流行や文化を教えてくれるのは、どこの家庭でもあるあるなのだと思う。
主人公であるスティーヴィーと年齢の近いルーベンは、クールな年上の友達であるレイ、ファックシット、フォースグレードの立ち振る舞いを見て、なぜかっこよく見えるのか・どうしたらクールに振る舞えるのかを日々学んでいる。
例えば、未成年にも関わらず、繰り返される飲酒に喫煙、ドラッグ。常に、どのタイミングで女を抱けるのかを考えている。真面目に学校に通ってお行儀よくしているよりも、後先のことを考えないで少し不良っぽくしているほうがかっこいい。ビビらずに無茶なことをやれば、周りが一目置いてくれる。
この言葉が繰り返され、各個人の持つ語彙の少なさが想像できるからこそ、彼らに教育が行き届いていないことや個人が抱える家庭問題も見え透いてくるのだが、劇中に飛び交うFワード*も「男らしさ」の象徴なのだろう。
*非常に下品とされる「F」で始まる言葉。例えばfuckなど。
私にはスケーターの知人がいて、「スケートボードはかっこつけるスポーツなんだよ」と以前教えてもらったことがある。私のスケートボードに関する知識は皆無であるが、『mid90s』を見ていると、自分の理想のかっこよさを追求していくスポーツだというのがよくわかる。スケートボードでスキルを磨き、自由自在に滑る姿は人を魅了する。そして、それは自分の新たな居場所を見つける方法であると同時に、周囲から認められ、自身の持つ「男らしさ」を示す手段のひとつであるような気がした。
悩みはダサいもの? 弱さを見せない少年たち
一見どこにでもいるような少年たちではあるが、レイは弟の死、ファックシットは家族との不和、フォースグレードは靴下一足すら買えないほどの貧乏、ルーベンは母から受ける暴力と、肌の色に関係なく、それぞれ抜け出すことのできない不幸を抱えている。だからこそ、仲間とつるみ、店でたむろし、スケートボードという自分の「かっこよさ」を追求できるカルチャーにのめり込み、より夢中になっていく。しかし、決してお互いに自分の持つ悩みやつらい出来事、悲しかったことなどを共有するシーンは描かれていない。きっとそれは、彼らの思う「男らしさ」であり、彼らの言葉を借りればダサくて“ホモ臭い”からなのだと思う。
しかし、レイは別だった。レイが自分よりもずっと幼いスティーヴィーに対して「俺の人生は最悪だけど、あいつらの中ではマシなんじゃないかと思う」という常日ごろから抱いていたであろう感情を正直に話すシーンがある。
これは、誰しもが抱く感情なのだと思う。人は誰だって、他人と比較して「自分はまだマシだ」と思いたい。自分の人生をできるだけ肯定していたい。不幸せの渦中にいるのであれば、「自分はまだ大丈夫だ」というその感覚は自分を強く支えるものに変化していくはずだ。
確かにレイは、スケートボードの技術も頭ひとつ抜けていて、普段の身のこなしもクールでかっこいい。人当りも、面倒見もいい。けれど、なかなか言葉にできない素直な気持ちを人にさらっと話せてしまうところも、彼が人を惹きつける理由のひとつなのだろう。
“不幸”はありふれた持ち物
物語の終盤には、5人で事故に遭い、スティーヴィーだけが入院を伴う大けがを負ってしまう。その際、レイが「わざわざ不幸になることはないだろ」というせりふをスティーヴィーにかける。
確かに黒人であるレイからすれば、白人であり心配してくれる母親のいるスティーヴィーは比較的幸せに見えたのかもしれない。だからこそ、素直に胸のうちを明かすことができたのだろう。けれど、スティーヴィーだって兄には力では敵わず暴力を受けることだってあるし、父親も蒸発している。母親も改心こそしたが以前まで恋人をとっかえひっかえしていた。他の登場人物ほどではないのかもしれないが、スティーヴィーもスティーヴィーで、決して「順風満帆」や「円満で幸せな家庭」とは言い切れない環境の中で生きている。結局、不幸は誰にでもある、ありふれた持ち物だ。見ているだけでは誰にもわからないし、比較することもできない。
スティーヴィーが自分の家庭の話や兄にどうしても力で敵わないことを話すことはなかった。作中での彼はたった13歳の少年であり、それこそ比較対象がいなかったがために自分の置かれている環境に気が付いていないだけかもしれない。けれどそれは、居場所を見つけられなかったスティーヴィーが4人のスケートボーダーたちと出会い、関わっていく中で自然と身につけていった一種の「男らしさ」なのだと思う。
16mmフィルムの映像に覚えた息苦しさの正体
スーパーファミコンにカセットテープ、タートルズやストリートファイター。それからピクシーズにニルヴァーナ。まさに90年代半ばを全編16㎜フィルムでこだわりを持ちながら撮影した映像は、どこか懐かしさや甘酸っぱさを感じながらも息苦しさを覚えることも多かったように思う。
それは、自分ではどうすることもできない不幸を抱えながらも、現状にもがき、「なりたい自分」を習得している最中の年齢だったからではないのだろうか。あの頃は苦しかったし、何をするにも不満だった。さらに言えば、形式的な「男らしさ/女らしさ」を身につけなければ、一個人の個性も認められなかった。その時期は通過儀礼のようでもあり、誰しもが経験しているはずで、あの経験が大人として成長させてくれたのかなとも思う。
だからこそ私は、映像に魅了されながらも息苦しさを感じたのだろう。
(あたそ)
■映画情報
『mid90s ミッドナインティーズ』新宿ピカデリー、渋谷ホワイトシネクイント、グランドシネマサンシャインほか全国ロードショー
【クレジット】 (C)2018 A24 Distribution, LLC. All Rights Reserved.
【配給】トランスフォーマー
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情報元リンク: ウートピ
「男らしさ/女らしさ」を身につけなければ認められなかったあの頃【mid90s】