「ちょうどいいブス」「女性のほうがコミュ力が高いから…」新元号・令和の時代がもうすぐ始まろうとしているのに、いつまで誰かの価値観に振り回されなきゃいけないの?
女性をめぐる自虐や我慢について、改めて問い直してみるキャンペーンも8回目になりました。今回は、女性向けセルフプレジャーグッズ「iroha」などを展開する株式会社TENGAで広報を担当する西野芙美さんに寄稿していただきました。
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「変わった子」から「生意気な女子」になった私に向けられた視線
思えば、私は物心ついた時から「ちょうどいい」にちっとも当てはまらない女の子でした。
かわいらしい格好が好きで、お化粧にいち早く興味を抱き、お人形遊びやおままごとに没頭する……ここまではいかにも「女の子らしい」子どもだったと思います。
しかし、私はおままごとと同じくらい本を読むのが好きで、考えることに没頭し、大人に混じって討論をするのが好きな子どもでした。
幼少期の頃は、それでも「ちょっと変わった子」で済みます。その認識が相手のものさしによって矯正を強いられてくるのは思春期から。女子にだけおしとやかさが求められ、校則の根拠を聞けば「黙って従え」と怒られる学校文化に違和感を抱いていたし、「生意気な女子」に向けられる社会や男子からの視線に傷ついてきました。
例えば、恋に恋する時期をあまり経ることなく、重たい初恋を迎えてしまった私は、好きになった男の子に「女友達としては一番」と言われました。失恋の傷が癒えて、次に好きになった男の子からも、同様の台詞が返ってきました。
高校生の頃、「見た目が好みだから」という理由で私をデートに誘ってくれた男の子は、デートが終わってみると「なんか、イメージと全然ちがうんだね」と苦笑いしました。その笑みは意外性を楽しむものではなく、明らかに落胆の色が見えていたのです。外見から勝手に中身を想像され、勝手に失望されるということも、たくさんありました。彼らは「私」ではなく「女性という外見を持った私」を見ていたのです。
悩んでる私って「なんだかダッセェな」
彼らがオブラートに包んで言ったことの本質はこうです——男を立てず、自分の意見を持って議論しようとするような女は、自分の知っている“女”ではない。だから少しも「ちょうどよくない」。
「女なんだから少しは黙ってろ」
「お前が男だったらよかったのに」
「面白いけど、女としてはナシだよな笑」
それらの言葉は、ひとつひとつは小さな刃でも、積み重なれば大きな傷になります。
従順で、何を言っても笑ってくれて、決して自分の想像の域を超えない、「ちょうどいい」女の子しか、彼らは愛さない。私が自分の大事にしている部分を捨てて、ちょうどよくならない限り、異性に愛されることはない。知識も経験も図太さも今より少ない女子高校生だった私は、そう思い詰めるところまで、苦しんでいました。
しかしある日私は、何かがぷつんと切れ、唐突に自分のことを「ダッセェな」と思いました。
「どうせ私のことなんて誰も愛してくれない」とか思ってる卑屈な自己憐憫、愛されるか愛されないかの二者択一に持ち込もうとしてる思考回路、全部、ぜーんぶうんざり。
女性にひたすら「ちょうどいい」を求めてくる社会や男性も嫌いでしたが、私はそれ以上に、傷つかないために内に閉じこもろうとしているダサい自分でいることに耐えられなくなったのです。
傷つかないよう心を閉ざして過ごすより、傷ついたって心を開き、世の中にある面白いことに率先して飛び込んだほうがずっといい。大体、心を開かないやつに相手が心を開くわけがないのです。生傷だらけの自分を受け入れて、自分から誰かを愛そう。そっちのほうが、人生楽しいんじゃないのか?
「好きなことしなよ」と背中を押してくれたパートナー
そんな決心から十数年、私は株式会社TENGAで広報の仕事をしています。
自社や製品のPRだけにとどまらず、「性を表通りに、誰もが楽しめるものに変えていく」というビジョンのもと、「性=卑猥、はしたない」だけにとどめてしまいがちな社会に疑問を呈し、「男性はこうあるべき、女性はこうあるべき」という価値観を、仕事を通じて少しずつ崩そうとしています。
時々「アダルトグッズを宣伝する女=抜かせてくれる女=何を言ってもいい女」というツイッターで飛んでくる“クソリプ”に反論し、誤解や偏見を解こうとする私は相変わらず、少しも「ちょうどいい」には当てはまりません。
だけどこの十数年で、愛し愛されることのよろこびをたくさん知り、私が女として想定外の行動を取ったとしても、それすら楽しんでくれる人がいることを知りました。ひとりの人間として愛してくれる人の前では、私はとことん女としてかわいくなれることも、知りました。
もし思い詰めていたあの頃、社会が求める「ちょうどいい」にすっぽり収まっていたら、こうした人生の甘露を味わうことはなかったでしょう。自分が大事にしているものを手放していたら、今の仕事に就き、自分の力を最大限活かして誰かのために行動する機会も、得られなかったでしょう。
だから、私のもとに寄せられる中傷——性を取り扱う女は性的対象に見られて当然、女は黙って男の性欲に従っていればいい、など——は、ノイズでしかありません。「女のくせに」「女なんだから」という枕詞をつけて言われたことに耳を貸す必要はないし、自分が本当にやりたいこと、意義があることを追求するほうが、自分のためにも人のためにもなると、今となっては思っています。
その一方で「女性が女性らしくいたいと願う気持ち」を否定する気はありません。例えば、ファッションもメイクもかわいいも誰かに愛されたいと頑張ることも。自分の意思でそうありたいと思う気持ちは素敵です。私だってスカートもメイクもハイヒールも大好きです。
大事なのは、「自分はどういう状態が一番過ごしやすいのか」を考え、他人の自由を奪わないことだと思っています。
女性らしさや男性らしさだって何らかのメリットがあったから発明されたものだし、身体的な構造のちがいは確かに存在します。しかしそれを「そうあるべき」に収めるのはナンセンスだし、働く男性を女性がサポートし続けるといった、「男性らしさ/女性らしさ」が維持していた社会システムは平成では成立しなくなりました。
既存の「女性らしさ」からはみ出すのが怖い人へ
自分の頭で考え何かを選択するのは、ある意味とてもつらいことです。だけど私たちは、自分が本当に求めるものを考えなければいけない岐路に立っている。
これまで確かだったものがどんどん流動的になっていく社会で、既存の価値観によって作られた「ちょうどいい」に無理やり自分を押し込めるのは、いずれ時代の流れに対応できなくなっていくリスクになるのではないでしょうか。
男性にしたって、既存の男らしさに当てはまらなくなってきた自分に苦しみ、つらい思いをしている人もいると思います。
「女の価値は若さと容姿と気遣い力だけだ」「受け身な女でいないと男に愛されない」と女性に呪詛を吐き続けることで、歪んだ男らしさを保っている人だっているはずです。それが「ちょうどいい」の押しつけになり、また新たな苦しみが生まれる。そういう苦しみの連鎖を、私はなくしたいのです。
もし過去の私のように、既存の「女性らしさ」に当てはまらない自分を責めている人が、この原稿を読んでくださっているなら。
決して自分を卑下しないでください。自分が楽しいと思うことを大事にして、目の前の課題をひとつひとつクリアしていけば、それが糧となって人生を潤してくれるはずだと、私は信じています。
自分の魅力を引き出せるのは、結局のところ自分です。そうやってあらゆる女性が、社会から押しつけられた「ちょうどいい」と折り合いをつけられることを、心から願っています。
(西野芙美)
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情報元リンク: ウートピ
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