予防内科医として活躍しているにも関わらず、その道を中断してアメリカに移住する関由佳さん。医師としてのキャリアを手放す覚悟をしたのはなぜ? 第2回目は、医師をやめるに至った経緯について聞きました。
「医師になりたい」と言った時の親の顔
——関さんは元々医師の家系に生まれたと伺いました。ご両親からは、医者になることを勧められていたのでしょうか?
関 由佳さん(以下、関):それはありませんでした。でも、父親が医師で、姉も従兄弟も医師や歯科医が多いです。そういう環境だったので、他の選択肢は思い浮かびませんでした。「医者になりたい」というとやっぱり両親は嬉しそうでしたし、特に母親は「これからは女性であっても手に職を付けたほうがいい」と思っている人でしたから、特に疑問もなく医学部に進学しました。
でも、医学に対する強い思いがあるわけでもなかったし、前回お話したとおり15歳で生理が止まった関係で食を通じた健康に興味が行っていたので、大学に通いながら料理の勉強をして、学内でこっそりカフェを開いたりしていました。
——その頃からもう食の世界に飛び込んでいたんですね。でも、このときは医師になることを選んだ。
関:はい。卒業して研修医になったけれど、どの科を回ってもやっぱりピンと来ませんでした。2011年に内科認定医の資格を取るのですが、その直後に起きたのが東日本大震災です。
やれることはやれるときにやらないと、後で後悔する
——あの日はどちらに?
関:東京です。かなり大きく揺れて怖い思いもしたし、その後の報道などを見て「仮に身体は健康でも、いつ死ぬかわからないんだ。やれることはやれるときにやらなきゃ」と痛感しました。
「薬じゃなくて食べ物で人を健康にしたい」という思いが固まっていたので、教授に相談したのですが、「それは医師の仕事ではない。ここではできない」と言われてしまって。
ならばそれができる場所を選べばいい、医局を離れて糖尿病のクリニックで働き始めたんです。院長先生の理解もあって、問診の際に患者さんの食についてアドバイスをするようになりました。
その後、美容クリニックの先生から「内側からの健康について見てほしい」と言われて、身体の中からきれいになりたい人のサポートをするようになりました。偶然そこのお客さんに雑誌の編集長がいらっしゃって、私のアドバイスを聞いてから肌がきれいになったと喜んでくださったんです。それがきっかけでレシピ本を出版できることになりました。29歳のときです。
——徐々に、やりたかったことに近づいていったわけですね。
関:実は、30歳までにレシピ本を出したいという思いがあったんです。でもいざそれが叶っちゃったら「あれ、全部出しきっちゃった。これからどうしよう」となりました。もっと本格的に料理を学びたいと思うようになったんです。
渡米してニューヨークの料理学校へ
——それでアメリカに料理の修行に行かれたそうですが、元々アメリカに行きたいという思いがあったんですか?
関:いいえ。でも、東日本大震災がきっかけで「何が起こるかわからないんだから、世界中どこでも生きていける言葉とスキルを身につけたい」と思うようになっていました。そんなこともあって「語学の勉強も兼ねて海外で料理学校に行こう」と思って調べていたら、偶然『ニューヨーク料理修行』(幻冬舎)という本に出会ったんです。そこに登場するのが、マクロビやビーガン料理、ベジタリアンの人のためのレシピなどが学べる料理学校。「ここしかない!」と思って3ヶ月くらいで準備をして渡米しました。このときに一度医師としてのキャリアを中断しました。2013年のことです。
——はじめて医師以外の道を進み始めてどう思われましたか?
関:毎日好きな料理のことに集中できて本当に幸せでした。同じ10時間でも、当直のときの10時間と、キッチンの中の10時間はこうも違うのか!と驚きました。
好きなことをやっているときって「頑張らなきゃ!」と思わなくても自然と頑張れますよね。そこで気づいたんです。今まで自分は「〇〇しなきゃ」に縛られていたんだって。
——例えば?
関:そうですね……。「勉強しなきゃ! 医師として頑張らなきゃ! ちゃんとしなきゃ!」という思いで必死にやってきたけれど、それじゃ満たされなくて。「やりたいからやる」って、こんなに楽しいんだなと気づきました。
場所がニューヨークだったのも大きかったと思います。日本で「医師を辞めて料理の学校に行く」と言うと「もったいない!」と周囲に言われてしまいますが、アメリカだと「アメージング!」とか「(良い意味で)クレイジー!」という反応になります。「医師の資格がある料理人あってステキ! 医学の知識を教えて!」なんて言ってくれる仲間もいて、アメリカで挑戦して本当に良かったと思いました。
それまでは心のどこかに、「自分は医師としても料理人としても中途半端なんじゃないか」という思いがありましたが、ニューヨークではそういう思いが一切外れて、あるがままの自分を受け入れて、好きなことをして生きていく喜びを味わいました。
——でも、料理修業を終えたあとに帰国して再び医師に戻ったんですよね? やっぱり医師という職業に未練があったのでしょうか?
関:料理学校を卒業したあと、ニューヨークのレストランでインターンとして働かせてもらいましたが、ビザの関係で日本に戻らなければいけなくなったのです。帰国するとまた「真面目な自分」が出てきて、医師の経験を積まなければと思うようになりました。それで銀座のクリニックの院長などをやったものの、やっぱり上手くいかない。身体が健康でも気持ちがついていかなくて、結局メンタルに不調をきたすように……。
自分の中に「厳しい親」を飼っていた
——院長を辞めたことで、いよいよ食と健康の道を歩むと決めて2020年の夏に渡米するわけですね。
関:はい。自分のやりたいことを実現していくことが健康にも大事だとわかったので。
——関さんに限らず、自分なりに頑張ってきた人ほど、それまでのキャリアを変えたり、新しいことを始めることに臆病になると思います。どうやったら自分の気持ちに素直に向き合えるのでしょうか。
関:それまでは、自分自身は自分にとっての「一番厳しい親」だったと気づいたのです。「しっかりしなきゃ、こう生きなきゃ、頑張らなきゃ」と常に自分にダメ出ししていました。そういう状態でいると、誰かが言った何気ない一言も全部自分を責めているように感じてしまいます。例えば私の場合だったら、「もっと頑張っている人もいるよ」と言われたら「じゃあ私も学会で発表でもしなきゃ!」とか。相手がそういう意図で言ったわけでなくとも、攻撃されたように感じてしまう時期がありました。
なので、自分自身が自分の「一番やさしい親」になろうと思ったんです。多分自分の子どもって、何をしてもかわいいと思うんです。どんな体型だろうと、どんな失敗をしても、すごく愛おしい。そういう気持ちで自分と向き合うようになったら、気持ちがラクになりました。失敗しても「挑戦して偉いね。失敗したけどその過程で色んな人に出会えたね。新しいことを知ることが出来たね」と思ってあげる。そうやって自分で自分を認めてあげる時間を大切にしています。
最終回は3月27日(金)公開予定です。
(構成:落合絵美、撮影:大澤妹、聞き手・編集:安次富陽子)
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情報元リンク: ウートピ
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